日月神示や出口王仁三郎師などの神伝とされるその言葉は、これまで何と表相的な予言や不思議な事象と結び付けられて語られてきたことでしょう。
そして又、今も尚数多に出現する、それに便乗するかの如き、類似神示の類…
サニワ師でもなんでもない私などが、真偽を見極めようなどと言うのは、筋が違うと思われようし、何が正統のものか、といったことは一概に決められないものでもあります。
ただ、自分のキ線に合うかどうかは、読めば分かります。読めないものは読めない…それが取りも直さず自分のキ線が如何なるものかを物語るのだから仕方ありません。
大本教神示類、日月神示などについて言えば、表相的に捉えられがちな言葉の奥に、所謂神仕組み、経綸というものが見え隠れしているのが、理解出来るか思います。
ここに留意しなければ、ただの興味本位の不思議の追っかけに終わるだけでしょう!
神仕組みというものも一口では言い表せないものですが、私の心象には、ハッキリとアクメと感じているものがあります。…それは和合というものです。少なくとも、これが感じられないものは、私のキ線とは合いません。
上っ調子の思念に捉われず、神との和合、親和に重きをおくべきなのです。
和合…これは何ともこの日本という国にこそ、備えられた仕組みではないでしょうか?
それには幾通りものパターンがあります。
火と水、厳と瑞、霊と体、男と女、イザナギとイザナミ、アマテラスとスサノオ、天津神と国津神、日本とイスラエル…
そして、思われたままの私と私そのもの…
これら全ての事は自分というものを他所にしては、何一つ意味などありません。
自分の事が、人生が分からない、迷妄にあるということは、自分が和合してない、という事に他なりません。
自己実現とか真我の実現という事も、こうしたことに関わってくるのでしょう。
和合ということが、示されるという事は、そこに分離というものが起きている、という事を意味しています。
さらには、その元は一つであった、という事も…だからこそ、その二相を巡り、魂が無性に懐かしさを覚え、惹きつけてやまない求めがあり、それが叶わない苦しみ、矛盾、相克対立の業因縁といったものが交錯しているのです。
中々自分自身の和合が出来得ない、という事は逆に言えば、自分も含めた世の中全ての和合も出来ていない、という事でもあろうか、と思います。
だからと言って、”世の中をどうにかしよう…”といった事に駆られるのは、迷妄の上に迷妄を重ねる試みに終わるばかりでしょう。
又、混迷する世界を他所にして、”私は悟った”とか、”私は救われた”などと宣うのは、ホントにオメデタイ限りです。
これらの事は、ことごとく見える世界(現世=顕世)と見えない世界(幽世)の和合が出来ていない、という事を物語っているのではないでしょうか?
この世に生を受けた限り、自己と世界は相即するものとして、あらしめられている、と言えます。
相即という事の中に、分離の苦しみ、和合という救いの神仕組みが秘されているようではありませんか?
これはどこまでも神仕組みなのであり、自称救世主の”我が世界を救う”などの妄言の出る幕などありません。
そして”神が表に顕れる…”和合は和合それ自体によってもたらされるでしょう。
それは又、神と人の和合、神人の顕現でもあることでしょう。
一元にもあらず、二元にもあらず…我が国には偏った、独善的教説が定着することがありません。内なる神が頷かないものは、身が頷かない、頭の理だけでは開かれません。頭と胴体が和合してないから…。神が開かなければ、開かない国…
日本は古来より”和を以て尊しとする国”と言いますが、和が秘められ、和をもたらす国柄であることを伝えているのでしょう…。
そして又、今も尚数多に出現する、それに便乗するかの如き、類似神示の類…
サニワ師でもなんでもない私などが、真偽を見極めようなどと言うのは、筋が違うと思われようし、何が正統のものか、といったことは一概に決められないものでもあります。
ただ、自分のキ線に合うかどうかは、読めば分かります。読めないものは読めない…それが取りも直さず自分のキ線が如何なるものかを物語るのだから仕方ありません。
大本教神示類、日月神示などについて言えば、表相的に捉えられがちな言葉の奥に、所謂神仕組み、経綸というものが見え隠れしているのが、理解出来るか思います。
ここに留意しなければ、ただの興味本位の不思議の追っかけに終わるだけでしょう!
神仕組みというものも一口では言い表せないものですが、私の心象には、ハッキリとアクメと感じているものがあります。…それは和合というものです。少なくとも、これが感じられないものは、私のキ線とは合いません。
上っ調子の思念に捉われず、神との和合、親和に重きをおくべきなのです。
和合…これは何ともこの日本という国にこそ、備えられた仕組みではないでしょうか?
それには幾通りものパターンがあります。
火と水、厳と瑞、霊と体、男と女、イザナギとイザナミ、アマテラスとスサノオ、天津神と国津神、日本とイスラエル…
そして、思われたままの私と私そのもの…
これら全ての事は自分というものを他所にしては、何一つ意味などありません。
自分の事が、人生が分からない、迷妄にあるということは、自分が和合してない、という事に他なりません。
自己実現とか真我の実現という事も、こうしたことに関わってくるのでしょう。
和合ということが、示されるという事は、そこに分離というものが起きている、という事を意味しています。
さらには、その元は一つであった、という事も…だからこそ、その二相を巡り、魂が無性に懐かしさを覚え、惹きつけてやまない求めがあり、それが叶わない苦しみ、矛盾、相克対立の業因縁といったものが交錯しているのです。
中々自分自身の和合が出来得ない、という事は逆に言えば、自分も含めた世の中全ての和合も出来ていない、という事でもあろうか、と思います。
だからと言って、”世の中をどうにかしよう…”といった事に駆られるのは、迷妄の上に迷妄を重ねる試みに終わるばかりでしょう。
又、混迷する世界を他所にして、”私は悟った”とか、”私は救われた”などと宣うのは、ホントにオメデタイ限りです。
これらの事は、ことごとく見える世界(現世=顕世)と見えない世界(幽世)の和合が出来ていない、という事を物語っているのではないでしょうか?
この世に生を受けた限り、自己と世界は相即するものとして、あらしめられている、と言えます。
相即という事の中に、分離の苦しみ、和合という救いの神仕組みが秘されているようではありませんか?
これはどこまでも神仕組みなのであり、自称救世主の”我が世界を救う”などの妄言の出る幕などありません。
そして”神が表に顕れる…”和合は和合それ自体によってもたらされるでしょう。
それは又、神と人の和合、神人の顕現でもあることでしょう。
一元にもあらず、二元にもあらず…我が国には偏った、独善的教説が定着することがありません。内なる神が頷かないものは、身が頷かない、頭の理だけでは開かれません。頭と胴体が和合してないから…。神が開かなければ、開かない国…
日本は古来より”和を以て尊しとする国”と言いますが、和が秘められ、和をもたらす国柄であることを伝えているのでしょう…。