人は皆この相対的な世界でそれぞれ良かれと思った、感じた道を歩まされている訳ですね。
私はこのブログでほとんど言及することがないのですが…この世界では当たり前のように思われ、感じられている生き方で、人間は弛まず前向きに努力、創意を重ね進歩して行くという道があります。
誤解しないでほしいのですが、私はそういう道を否定している訳ではありません。
ただ私は手放しでそういう生き方が出来る機根も力も無く、すぐヘタレてしまう意気地無しなので、その事を言及するのはおこがましい、ということなのです。従ってこんなことはとても言えた義理など無いのですが、道の途上にある人には、どこまでも得心するまで、限界にブチ当たるまで突き進んでほしいと思う次第です。
そして、どういう道を歩まされていようと、そこには苦しみ、悩み、不調和、疑念…といったものは程度の差はあれ背負わなければならないでしょう。
それがこのバカバカしい世の中を生きている、生かされているということなんでしょ?
神とか恩寵とか、自己を超えたものと思われている存在について全く想い到ることの無い人はともかく、この人生途上の壁に突き当たるなどの契機から、そういう縁の人には所謂宗教とかスピへの道が開けてきます。
そうです!…かように、”神的なものは自己を超えている!”のです。
然るに…いかに多くのこの別の道の途上にある人は、尚もより上なるもの、前にあるもの目差して一方の道の流儀の生き方を持ち込んでいることでしょう。
念頭には自己を超えた神的なものが思い描かれながらも、修行といい、探究、信仰といい自己の限界内をひたすら汲まず弛まず歩み続けているのです。
これを自分で自分の限界点、臨界点に突き当たることを極めようと、意識的に勤しんでいるという事なら、私にも理解出来ないでもありません。
彼の意識には、あるいは自己の限界をブチ破ったその向こうに、自己を超えた世界が見据えられているのかも分かりません。
言い換えれば、彼の意識に根付いている、その超越的な何かが彼をその奮闘に駆り立てているのかもしれません。
こういう例でなく、何とも中途半端でどこへ行こうとしているのか、何に預かりたいのか、ずっと同じところをグルグル回り続けていたいのか、ただ単にヒマなのか…よおワカラン人たちが”中間”には沢山見受けられます。
中間というのは、実に中途半端な生き方という意味を含んでいるのですが、思いの世界と言ってもいいでしょう…思いというのは、越えちゃうか、狂っちゃうか、ホントに壁にぶち当たるかしない限り、どこまでも宙に漂い続け、どこにも導かれることがありません。
目差すべき境地に至ろうとしてもなかなかそんな心境にはなれない…自己を超えようとして頭の中だけは高次元に飛んで行くだけ…
本当に自己の壁というものに突き当たることが無いので、自己を超えた領域のことなど分かろうはずがないのです。
いや…そもそもその限界に降参するつもりも無いのか…
自分の限界内で所謂霊的な道を歩もうとしているので、その中間にはいくつもの段階的なものが設え、そのピラミッド構造の頂点で神と一つになるらしいです。まるでこの世のピラミッド構造がそこに投影されているように…実際に上り詰めて行った先に、神的なものにぶつかるかどうかは分かりゃしないのに…。それは思いの中にしかないのかも知れません。
思いの世界には鉱物界とか動物界とか幽界とか第一、第二霊界とか、いちいち考えるだけでも分裂しそうで、核となるものに即応しない中間的なものが沢山あるのです。”ここにたどり着いた、しかしまだ先が有る、進まなきゃ…”というのは正に”そう思っている”ということなのです。これは思いにピリオドが打たれるまで続くでしょう。一体どこに平安が有るのか分かりません。
本当に壁の前にブチ当たったら、降参するしかありません。
そこに全託の道が開かれるのです。
こののっぴきならぬ事態に意識のぎりぎりの根底に示されるのは、もはや思われた、信じられた神ではありません!
神は居るのかどうかは分からない…しかしそこに初めて自己を超えたものへと意識が向けられるのです。
ここにおざなりでない、真向きなる祈りというものが生まれます。
そこにしか道は無い…それは取りも直さず、思いの堂々巡り、信じる宗教の終焉を意味しています。
自己を超えるということは、自己の力をどこまでも拠り所にして、切磋琢磨して限界にぶつかるか、そこに降参して、祈りのうちにゆだねるか、どっちかしかないのです。
そうでなきゃ、ずっと終わりなき中途半端な世界に居続けるしかありません。
多分、この世の終わりが来るまで?
想定外の事が相次ぎ、変動の激しさを物語る現在の様相…どうして同じ思いのままでいられることでしょう…。
私はこのブログでほとんど言及することがないのですが…この世界では当たり前のように思われ、感じられている生き方で、人間は弛まず前向きに努力、創意を重ね進歩して行くという道があります。
誤解しないでほしいのですが、私はそういう道を否定している訳ではありません。
ただ私は手放しでそういう生き方が出来る機根も力も無く、すぐヘタレてしまう意気地無しなので、その事を言及するのはおこがましい、ということなのです。従ってこんなことはとても言えた義理など無いのですが、道の途上にある人には、どこまでも得心するまで、限界にブチ当たるまで突き進んでほしいと思う次第です。
そして、どういう道を歩まされていようと、そこには苦しみ、悩み、不調和、疑念…といったものは程度の差はあれ背負わなければならないでしょう。
それがこのバカバカしい世の中を生きている、生かされているということなんでしょ?
神とか恩寵とか、自己を超えたものと思われている存在について全く想い到ることの無い人はともかく、この人生途上の壁に突き当たるなどの契機から、そういう縁の人には所謂宗教とかスピへの道が開けてきます。
そうです!…かように、”神的なものは自己を超えている!”のです。
然るに…いかに多くのこの別の道の途上にある人は、尚もより上なるもの、前にあるもの目差して一方の道の流儀の生き方を持ち込んでいることでしょう。
念頭には自己を超えた神的なものが思い描かれながらも、修行といい、探究、信仰といい自己の限界内をひたすら汲まず弛まず歩み続けているのです。
これを自分で自分の限界点、臨界点に突き当たることを極めようと、意識的に勤しんでいるという事なら、私にも理解出来ないでもありません。
彼の意識には、あるいは自己の限界をブチ破ったその向こうに、自己を超えた世界が見据えられているのかも分かりません。
言い換えれば、彼の意識に根付いている、その超越的な何かが彼をその奮闘に駆り立てているのかもしれません。
こういう例でなく、何とも中途半端でどこへ行こうとしているのか、何に預かりたいのか、ずっと同じところをグルグル回り続けていたいのか、ただ単にヒマなのか…よおワカラン人たちが”中間”には沢山見受けられます。
中間というのは、実に中途半端な生き方という意味を含んでいるのですが、思いの世界と言ってもいいでしょう…思いというのは、越えちゃうか、狂っちゃうか、ホントに壁にぶち当たるかしない限り、どこまでも宙に漂い続け、どこにも導かれることがありません。
目差すべき境地に至ろうとしてもなかなかそんな心境にはなれない…自己を超えようとして頭の中だけは高次元に飛んで行くだけ…
本当に自己の壁というものに突き当たることが無いので、自己を超えた領域のことなど分かろうはずがないのです。
いや…そもそもその限界に降参するつもりも無いのか…
自分の限界内で所謂霊的な道を歩もうとしているので、その中間にはいくつもの段階的なものが設え、そのピラミッド構造の頂点で神と一つになるらしいです。まるでこの世のピラミッド構造がそこに投影されているように…実際に上り詰めて行った先に、神的なものにぶつかるかどうかは分かりゃしないのに…。それは思いの中にしかないのかも知れません。
思いの世界には鉱物界とか動物界とか幽界とか第一、第二霊界とか、いちいち考えるだけでも分裂しそうで、核となるものに即応しない中間的なものが沢山あるのです。”ここにたどり着いた、しかしまだ先が有る、進まなきゃ…”というのは正に”そう思っている”ということなのです。これは思いにピリオドが打たれるまで続くでしょう。一体どこに平安が有るのか分かりません。
本当に壁の前にブチ当たったら、降参するしかありません。
そこに全託の道が開かれるのです。
こののっぴきならぬ事態に意識のぎりぎりの根底に示されるのは、もはや思われた、信じられた神ではありません!
神は居るのかどうかは分からない…しかしそこに初めて自己を超えたものへと意識が向けられるのです。
ここにおざなりでない、真向きなる祈りというものが生まれます。
そこにしか道は無い…それは取りも直さず、思いの堂々巡り、信じる宗教の終焉を意味しています。
自己を超えるということは、自己の力をどこまでも拠り所にして、切磋琢磨して限界にぶつかるか、そこに降参して、祈りのうちにゆだねるか、どっちかしかないのです。
そうでなきゃ、ずっと終わりなき中途半端な世界に居続けるしかありません。
多分、この世の終わりが来るまで?
想定外の事が相次ぎ、変動の激しさを物語る現在の様相…どうして同じ思いのままでいられることでしょう…。