ある時、スブドの私が所属していた支部のヘルパー(同会の役職の一つで、主として霊的方面の事柄に携わる。リーダーではない)からこのような意味深な事を言われたことがあります。
「あなたはとてもガードが強い…」
これは私がスブドに疑念がもたげてきて、警戒心を強くしていた事に対する発言だったのか、それとも”見えざるガード”のことを言っていたのか、敢えて突っ込んで聞きませんでしたが、多分両方の意味だったのでしょう。
私は、集団的エクスタシーとか、憑霊的な事が懸念されるような集会に参じていても、その波のようなエネルギーに心身が飲まれてしまうようなことはほとんどありませんでした。
”見えざる導師〝の許可?無しによそから霊的なものが侵入したり、それに任せてしまう事は無かったのです。とは言っても”発動”する時はします。しかし身に覚えている限り”自発動”に限られていました。
というよりそういうものなんでしょ?この発動というものは…(これはあくまで自分の感じを言っているまでで、実際はどうなっているのか確かめたことも無く分からないことですが…)
他霊の意のままなんてのはオカシイし、アブナイでしょう。だからこそ見えざるガイダンスが必要なんです!
そして信じられているようなどっかの神サマとかが降りてきたり、憑ったりするんじゃない…リアルに実存するものが臨在する以外の何ものでも無いでしょう。この現臨によって、ここから離れることから守られるのです。
そして、守護霊とか言われてはいても、真実の自己と切り離されたものではないのです。
又、D会のM女史からはよく「あなたはいつも守られているのね…」と言われ、ある時など「それをじいっと聞こうとしているあなたが居る…そのお示しがあれば、全く他の声など聞かないで、テコでも譲らないようね!」などと言われたことがあります。
”見えざる導師!”…私がこういうものを知覚し始めた、昭和53年からの二年くらいの間のことは、何十年も経過したように感じられます。
当時私の周囲には、何かが見えたとか、異次元に移行したとか、オカルト指向の人たちが随分居ました。
”彼らが言っているのは、思い描くことが出来る、所詮この世の延長に過ぎない…一風変わった景色を眺めているに過ぎないのだ! 彼ら自体はどうなっているのか、聞いている私自体はどうなのか!…そこに本当に私が求めているものがあるのだろうか!”
このようなことを私はこの耳で声を聞くように聞いた訳ではありません。
内側で強く意識させられたのです。そして希求が起こってきます”このままではたまらない!自分自身に直接触れられる神、真実が欲しい!”…すると、すぐそれに呼応するようなものが与えられるのです。
それが書物を通してのものであっても、ジッとして居れないように魂に衝迫してくるのを覚えました。
今から考えると、特別な方法といったもの無しに、既にその片鱗に触れていたのを感じずに居れません。特別な事はしていませんでしたが、ただ意識的になっていたという事は言えます。意識が自ずと向かわせられるのです。
”そこに魂の平安というものがある”と感じられるからです。
この時分こうしたことが相次いでありましたが、深く考えた訳でも無くどうしてそういう風に感じられるのかが分かりません。
数年後、突如こういうことが私から離れてしまったように感じた時初めて”如何に私は導きというものを受けていたのか”ということを如実に分からされました。
私は何かをやろうとしたんじゃない、祈り心というものがあったのは確かですが、自ずとそうなったのです。
そしてここ最近、朝の目覚めの時など一際ジンジンと愛、ヴァイブレーションに包まれるのを強く感じています。
あの初めの愛のことも今によみがえる…ゆくところも知らずしてただ内なる導きに聞き、従っていた…若い情熱は失ったかもしれないが、当時は気付かなかった理解が与えられる…ただ、この感じ、この平安は全く同じもの
時間も思いを超えて…
「あなたはとてもガードが強い…」
これは私がスブドに疑念がもたげてきて、警戒心を強くしていた事に対する発言だったのか、それとも”見えざるガード”のことを言っていたのか、敢えて突っ込んで聞きませんでしたが、多分両方の意味だったのでしょう。
私は、集団的エクスタシーとか、憑霊的な事が懸念されるような集会に参じていても、その波のようなエネルギーに心身が飲まれてしまうようなことはほとんどありませんでした。
”見えざる導師〝の許可?無しによそから霊的なものが侵入したり、それに任せてしまう事は無かったのです。とは言っても”発動”する時はします。しかし身に覚えている限り”自発動”に限られていました。
というよりそういうものなんでしょ?この発動というものは…(これはあくまで自分の感じを言っているまでで、実際はどうなっているのか確かめたことも無く分からないことですが…)
他霊の意のままなんてのはオカシイし、アブナイでしょう。だからこそ見えざるガイダンスが必要なんです!
そして信じられているようなどっかの神サマとかが降りてきたり、憑ったりするんじゃない…リアルに実存するものが臨在する以外の何ものでも無いでしょう。この現臨によって、ここから離れることから守られるのです。
そして、守護霊とか言われてはいても、真実の自己と切り離されたものではないのです。
又、D会のM女史からはよく「あなたはいつも守られているのね…」と言われ、ある時など「それをじいっと聞こうとしているあなたが居る…そのお示しがあれば、全く他の声など聞かないで、テコでも譲らないようね!」などと言われたことがあります。
”見えざる導師!”…私がこういうものを知覚し始めた、昭和53年からの二年くらいの間のことは、何十年も経過したように感じられます。
当時私の周囲には、何かが見えたとか、異次元に移行したとか、オカルト指向の人たちが随分居ました。
”彼らが言っているのは、思い描くことが出来る、所詮この世の延長に過ぎない…一風変わった景色を眺めているに過ぎないのだ! 彼ら自体はどうなっているのか、聞いている私自体はどうなのか!…そこに本当に私が求めているものがあるのだろうか!”
このようなことを私はこの耳で声を聞くように聞いた訳ではありません。
内側で強く意識させられたのです。そして希求が起こってきます”このままではたまらない!自分自身に直接触れられる神、真実が欲しい!”…すると、すぐそれに呼応するようなものが与えられるのです。
それが書物を通してのものであっても、ジッとして居れないように魂に衝迫してくるのを覚えました。
今から考えると、特別な方法といったもの無しに、既にその片鱗に触れていたのを感じずに居れません。特別な事はしていませんでしたが、ただ意識的になっていたという事は言えます。意識が自ずと向かわせられるのです。
”そこに魂の平安というものがある”と感じられるからです。
この時分こうしたことが相次いでありましたが、深く考えた訳でも無くどうしてそういう風に感じられるのかが分かりません。
数年後、突如こういうことが私から離れてしまったように感じた時初めて”如何に私は導きというものを受けていたのか”ということを如実に分からされました。
私は何かをやろうとしたんじゃない、祈り心というものがあったのは確かですが、自ずとそうなったのです。
そしてここ最近、朝の目覚めの時など一際ジンジンと愛、ヴァイブレーションに包まれるのを強く感じています。
あの初めの愛のことも今によみがえる…ゆくところも知らずしてただ内なる導きに聞き、従っていた…若い情熱は失ったかもしれないが、当時は気付かなかった理解が与えられる…ただ、この感じ、この平安は全く同じもの
時間も思いを超えて…