秘教団体?スブドでは”テスト”と言われる、こちらの問いかけに対し神意を伺うという”試み”が行われています。
これは事前にある問いを提げ、そのままその事を頭から離し、預けたままラティハンを行い、その自然なる動きの中である反応が示されることで、神からの応答とされているのです。
これが我々の判断が及ばないような問題に直面した時、こうしたものに頼るというのも理解出来なくも無いですが、全く下世話な事柄でも持ち込まれることがあるようです。
例えば”某賢者と誰賢者とではどちらが上か?”とか…
一体そういう事を問うているものが何者で、応答するものは又何者なのでしょうか?
神はそういう事に答えるものなのでしょうか?…神は我々の好奇心を満たすためのダシにされるのでしょうか?
とはいえ、私も実は好奇心旺盛な人間で、例えばバパ・スブーとグルジェフでは、どちらが優れているか、という事に興味ない訳ではありません(笑)
ちなみにオショー・ラジニーシは自著で「比べ物にならない…」(どっちがどう?どっちでもいいです!)と決めつけていましたが、確かに”話者”とか”まとまった理論”という観点では全くお話になりません。それは両者の本を読んだらすぐ分かることです。
では、ラティハンとグルジェフのメソッド(これはバパ、グルジェフそれぞれ、そのオリジネーターとは言い切れないものがありますが)とはどちらがいいかといったら話は別です。私にはグルジェフの道には向かない…一度も関わったことがありません…つまり好きじゃないのです。
(もっとも私にはラティハンは受容できるが、バパの教説は?…なのですが…)
このようにある人にとって、どっちが上で優れているか、という事は、そこで如何にもっともらしいことが語れていようと”人の好き好き”って事に尽きるんじゃありませんか?…それが縁、カルマ、又世の中というものでしょう。おそらくところ変われば、違った答えが示されるでしょう。
お分かりかと思いますが、こういう事というのは全く相対次元のことなのです。
相対界のことは自分で考えて、感じて分かることなのです(正しいかどうかは別のことですが)。神に決めてもらうのなら何のために思考や感性が与えられているのでしょうか? こっちとあっちの答えが違ったらどうなのでしょう(本来あり得ん事でしょうが)。どうしたって我が道を行くのが人間のサガだと思いますが…
相対で示されることは何だろうと、どこまでも相対の事態に過ぎません。
相対的な事柄でお伺いを立てたりするものと言ったら、それは”占い”でしょう。
私は別に占いを否定したりしないですが、そういうものに”神意は如何?”などと、御大層な事を取って付けたりしないで、これは”占い事”と割り切ることにしています。それに応答するものもそれ相応(世話好きな神サマ?)のものだと理解しています。(だからと言って的中することも多くバカになりません)
私は見えざる導きというものと意識の中で交流したりしますが、”お伺い”を立てる何て発想はほとんどありません。(ただ、その気は無くとも感じる事はままあります)
いちいち応えてはくれないものだと感じていますし、、前記したように、どうしても伺おうという気にならないのです…声なき声で伝わるものは、”お前はどう思い、どう感じるのか?”と、私に主体性を持たせるような促しばかりです。
相対次元のことは、それを超えたものに答えを求められないでしょう。第一決められたものなど何も無いのですから…決めつけるのは相対的な人間しか居ません。
ちなみに相対的な世界の事について、それを超えたものからの答えを求めていいか?と、ちょっと意識してみると…
何だかザワザワと気持ちが落ち着かなくなり、偏頭痛がしてきます。答えは最初から与えられているようなものです。
”神を試みるなかれ、汝試みに遭わんがため…”と告げられているように…。
これは事前にある問いを提げ、そのままその事を頭から離し、預けたままラティハンを行い、その自然なる動きの中である反応が示されることで、神からの応答とされているのです。
これが我々の判断が及ばないような問題に直面した時、こうしたものに頼るというのも理解出来なくも無いですが、全く下世話な事柄でも持ち込まれることがあるようです。
例えば”某賢者と誰賢者とではどちらが上か?”とか…
一体そういう事を問うているものが何者で、応答するものは又何者なのでしょうか?
神はそういう事に答えるものなのでしょうか?…神は我々の好奇心を満たすためのダシにされるのでしょうか?
とはいえ、私も実は好奇心旺盛な人間で、例えばバパ・スブーとグルジェフでは、どちらが優れているか、という事に興味ない訳ではありません(笑)
ちなみにオショー・ラジニーシは自著で「比べ物にならない…」(どっちがどう?どっちでもいいです!)と決めつけていましたが、確かに”話者”とか”まとまった理論”という観点では全くお話になりません。それは両者の本を読んだらすぐ分かることです。
では、ラティハンとグルジェフのメソッド(これはバパ、グルジェフそれぞれ、そのオリジネーターとは言い切れないものがありますが)とはどちらがいいかといったら話は別です。私にはグルジェフの道には向かない…一度も関わったことがありません…つまり好きじゃないのです。
(もっとも私にはラティハンは受容できるが、バパの教説は?…なのですが…)
このようにある人にとって、どっちが上で優れているか、という事は、そこで如何にもっともらしいことが語れていようと”人の好き好き”って事に尽きるんじゃありませんか?…それが縁、カルマ、又世の中というものでしょう。おそらくところ変われば、違った答えが示されるでしょう。
お分かりかと思いますが、こういう事というのは全く相対次元のことなのです。
相対界のことは自分で考えて、感じて分かることなのです(正しいかどうかは別のことですが)。神に決めてもらうのなら何のために思考や感性が与えられているのでしょうか? こっちとあっちの答えが違ったらどうなのでしょう(本来あり得ん事でしょうが)。どうしたって我が道を行くのが人間のサガだと思いますが…
相対で示されることは何だろうと、どこまでも相対の事態に過ぎません。
相対的な事柄でお伺いを立てたりするものと言ったら、それは”占い”でしょう。
私は別に占いを否定したりしないですが、そういうものに”神意は如何?”などと、御大層な事を取って付けたりしないで、これは”占い事”と割り切ることにしています。それに応答するものもそれ相応(世話好きな神サマ?)のものだと理解しています。(だからと言って的中することも多くバカになりません)
私は見えざる導きというものと意識の中で交流したりしますが、”お伺い”を立てる何て発想はほとんどありません。(ただ、その気は無くとも感じる事はままあります)
いちいち応えてはくれないものだと感じていますし、、前記したように、どうしても伺おうという気にならないのです…声なき声で伝わるものは、”お前はどう思い、どう感じるのか?”と、私に主体性を持たせるような促しばかりです。
相対次元のことは、それを超えたものに答えを求められないでしょう。第一決められたものなど何も無いのですから…決めつけるのは相対的な人間しか居ません。
ちなみに相対的な世界の事について、それを超えたものからの答えを求めていいか?と、ちょっと意識してみると…
何だかザワザワと気持ちが落ち着かなくなり、偏頭痛がしてきます。答えは最初から与えられているようなものです。
”神を試みるなかれ、汝試みに遭わんがため…”と告げられているように…。