人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

形なき祈り

2017-04-08 12:00:34 | 祈りと瞑想
私は知識としていくつか瞑想のテクニックというものを知っています。
気が進まなかったですが、ものは試しでそのいくつかを試してみたこともあります。
もしかして思った通りの事態になるかも知れない、ホントかどうか試してみようというノリだったと思います。
して…やっぱし、信じた通り…ヴァイブレーションに包まれる感じを一時失うハメになりました。
”せっかく思いを超えたハタラキとつながったのに、何のために修行するんだ!”と思いました。
こういうこともあって、全くその瞑想法とかのやり方を覚えようという気にはなりません。
じゃ、私は如何にして上よりのつながりを見出したか?…分からん!
何かの方法に従ったわけじゃないのです。
精神的苦境から逃れたい一心で祈っただけだったのです。
”祈ってみよう”じゃなくて”祈らざるを得なかった”のです。
そして…いつの間にか、声なき声、内的感覚を通して見えざる導きを身に覚えたのです。
人は神に願いを訊いてもらおうとして祈る…
でも…のっぴきならぬ契機に思わず手を合してしまうものです。
何の祈りに何の効果が有るかどうかは知りません。
まるで祈るのにお金を払うように、システムに従うように何かの目論みが感じられますね…
幸福、平安は取引で与えられるのでしょうか?
しかし…思いを超えて、祈ろうとする以前に、祈らされていることが知られます。
そして、手を合し、無心に、子供のように祈らざるを得ない状況の中に…
祈りは既に叶えられているのを見出します。
その中に…神的なものに思いが向けられ、包まれることで幸福、平安が覚えられるから…
如何に多くの人はここに在る幸福、平安を取り逃がしてしまう事か!
祈りとは思いを超えること…思われた自己を超えた”我ならぬ我”との邂逅…
この神秘の交わりは諸々の瞑想法ならぬ自然なる瞑想へと誘われます。
ここに、祈りと瞑想は一つのものであることが知られます。
世の中にはいくつもの宗教宗派があり、教えがあり、修行法というものがあります。
そういうものから果たして悟道や個人あるいは世界の平和に導かれるのかどうかは知らない…
諸々の相対的想念に捉われているうちは、ずっとその周囲をさまよい続けるだけでしょう…
どんな宗教、教え、修行法があろうと、思いを超えたもの無しではその示すものには導かれません。
そして…思いを超えた世界には、この宗教、この教え、この方法というものは全て色褪せてしまいます。
全ての道はこのものによって内実がもたらされているのです。
諸々の道があるんじゃない、道は一つしかない…あなたという一つの門からしか入れません。
そこから普遍的世界が開かれます。
思いを超えるとは相対を超える事…
縦には未生以前から生き続ける自己の大本につながり、横には普遍的人類とつながり…
南無無量寿仏、無量光仏…南無阿弥陀仏…
ここに個人も人類も成道されてある…
弥増しに自他両成にハタラキあらんことを…
唯々形なき祈りに内催されるのみ…









コメント
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