私はこのブログで宗教的精神的遍歴のようなことについて書いていますが、何とそこに私の矛盾し、分裂した性向を映し出していたことでしょう…。
”きっとここに私が求めてやまないものがある、どっかに普遍的真理を伝えている団体が存在しているに違いない!”と思い立ってその門をくぐってみたものの、次第に意に満たないものを感じ、幻滅感がもたげてきて遠のいてしまうのです。こういう事を性懲りも無く繰り返してきたのでした。
自分の外にそうしたものを求めるというのは、幻影を追いかけているようなことでしょうか?
”求めてやまないものを見つけた!”と実感されるのは、多くの場合そのグループの中心人物の著書なりに触れ、ある種の精神的感応を受けた時です。
そしてその具体的現実的展開である集会に参じようと赴く訳ですが、どうも内なる印象とは違うものがある…何がスレ違ってしまうのか…ことにそこに通気性を欠いた、この世的な相対観捉われた有り様が感取された時、私に抗しがたい反感がもたげてきて、この事を巡って人間的な軋轢も起こったりして、自分からその関係を断ち切ってしまう事を平然とやったりしてきたのです。
これは私の業、弱さなのでしょう。私は日常の多くの場合、孤独を好み、人との関わりを遠ざけています。
この事はおそらく私が物心付いた時から、疎外感というものを感じた事と無関係ではないでしょう。そして複雑な家庭環境とも…
この世のあらゆる相克、不調和…大は国際間の戦争から小は隣人とのイザコザに至るまで、人間関係の縺れに起因してないものは無いではありませんか!
”人間関係はかくも呪われている…災いの種、遠ざけるべし!”
しかし…このように私に幾つかの精神的団体に惹きつけたものは何だったのでしょうか?
人間の集まりに他ならないのです。その中に生き、ハタライているものを見ようとしていたのです。
これは、私が人生の裏側に踏み入れた際、内なる普遍的共同体、有機的つながりというものを垣間見せられた時、このものによってその希求が呼び覚まされていることをハッキリ示されたのです。これは、それ以前から私の内部で息づいていたのです。
もし精神的道の根幹を成しているものが神と人間との関わりばかりというのなら、ややこしい人の群れに身を投じる必要など無いでしょう。
瞑想や祈りなら一人でも出来るし、神的なハタラキに預かることも出来ます。
でも…どうしても満たされないものが残るのです。
そのままでは、神的ハタラキの具体的、現実的展開を見ることが出来ないからです。
それはどこに表れるのでしょうか?…人と人の間に他なりません。見えない神のハタラキは見える人間を通して顕わになるのでしょう。
私は結果として、どの団体にも安息の地を見出すことは出来ませんでした。結局見える形としてのいかなる教会も私にとっては幻想だったのかもしれません。
しかし…それは幻滅と挫折の中に霞んでしまっているようであっても…私は目の当たりに見たのです!…実感したのです!
人と人の間に有機的なハタラキが立ち上っているのを…
D会にも、クエーカーの集会にも、そしてあの忌まわしき?スブドにも垣間見られたのです。
それはほんの一瞬涸れた泉から水が噴き出したようなものだったかもしれません。
どうして顕れ出たのかも、どうやってその喜ばしき状態を保持出来るかどうかも分かりません。それが人の思いを超えてハタラクという所以なのです。
そして、そこにはD会やクエーカー、スブドといった固有の集団は存在せず、見たままにはどんな小さなものであっても、それらを超えた一つの普遍に開かれた有機体の表れというものを感じずに居れませんでした。
それはあの内なる普遍共同体のそのままの顕現という訳では無かったですが、その息吹の片鱗は確かに伝わってきました。
私は、そういうものに預かっていながらも、自分からそのつながりを絶つようなことをしてきたのかもしれません。人はどう感じたかは分かりませんが、私は彼らを裏切ったのかもしれません。しかし、私も裏切られたと感じたのです。
その天的なものの有り様が覆い隠され、変質させられるのに我慢がならない気持ちにさせられたのです。
私はただ、どうしても、こうしてもあの天的世界のことを裏切る訳にはゆきません。私が私でなくなりますから…
私の精神的遍歴にはかように大いなる無駄、試行錯誤、幻滅、挫折がありました。
だが、私は内なる希求に従い、ほんの一瞬ながらも、その出どころ、源泉に触れることも出来たのです。
今後のことはどうなるかわかりませんが、すべては内なる生命の故だったことを思い起こせば、後悔などあろうはずはありません…。
”きっとここに私が求めてやまないものがある、どっかに普遍的真理を伝えている団体が存在しているに違いない!”と思い立ってその門をくぐってみたものの、次第に意に満たないものを感じ、幻滅感がもたげてきて遠のいてしまうのです。こういう事を性懲りも無く繰り返してきたのでした。
自分の外にそうしたものを求めるというのは、幻影を追いかけているようなことでしょうか?
”求めてやまないものを見つけた!”と実感されるのは、多くの場合そのグループの中心人物の著書なりに触れ、ある種の精神的感応を受けた時です。
そしてその具体的現実的展開である集会に参じようと赴く訳ですが、どうも内なる印象とは違うものがある…何がスレ違ってしまうのか…ことにそこに通気性を欠いた、この世的な相対観捉われた有り様が感取された時、私に抗しがたい反感がもたげてきて、この事を巡って人間的な軋轢も起こったりして、自分からその関係を断ち切ってしまう事を平然とやったりしてきたのです。
これは私の業、弱さなのでしょう。私は日常の多くの場合、孤独を好み、人との関わりを遠ざけています。
この事はおそらく私が物心付いた時から、疎外感というものを感じた事と無関係ではないでしょう。そして複雑な家庭環境とも…
この世のあらゆる相克、不調和…大は国際間の戦争から小は隣人とのイザコザに至るまで、人間関係の縺れに起因してないものは無いではありませんか!
”人間関係はかくも呪われている…災いの種、遠ざけるべし!”
しかし…このように私に幾つかの精神的団体に惹きつけたものは何だったのでしょうか?
人間の集まりに他ならないのです。その中に生き、ハタライているものを見ようとしていたのです。
これは、私が人生の裏側に踏み入れた際、内なる普遍的共同体、有機的つながりというものを垣間見せられた時、このものによってその希求が呼び覚まされていることをハッキリ示されたのです。これは、それ以前から私の内部で息づいていたのです。
もし精神的道の根幹を成しているものが神と人間との関わりばかりというのなら、ややこしい人の群れに身を投じる必要など無いでしょう。
瞑想や祈りなら一人でも出来るし、神的なハタラキに預かることも出来ます。
でも…どうしても満たされないものが残るのです。
そのままでは、神的ハタラキの具体的、現実的展開を見ることが出来ないからです。
それはどこに表れるのでしょうか?…人と人の間に他なりません。見えない神のハタラキは見える人間を通して顕わになるのでしょう。
私は結果として、どの団体にも安息の地を見出すことは出来ませんでした。結局見える形としてのいかなる教会も私にとっては幻想だったのかもしれません。
しかし…それは幻滅と挫折の中に霞んでしまっているようであっても…私は目の当たりに見たのです!…実感したのです!
人と人の間に有機的なハタラキが立ち上っているのを…
D会にも、クエーカーの集会にも、そしてあの忌まわしき?スブドにも垣間見られたのです。
それはほんの一瞬涸れた泉から水が噴き出したようなものだったかもしれません。
どうして顕れ出たのかも、どうやってその喜ばしき状態を保持出来るかどうかも分かりません。それが人の思いを超えてハタラクという所以なのです。
そして、そこにはD会やクエーカー、スブドといった固有の集団は存在せず、見たままにはどんな小さなものであっても、それらを超えた一つの普遍に開かれた有機体の表れというものを感じずに居れませんでした。
それはあの内なる普遍共同体のそのままの顕現という訳では無かったですが、その息吹の片鱗は確かに伝わってきました。
私は、そういうものに預かっていながらも、自分からそのつながりを絶つようなことをしてきたのかもしれません。人はどう感じたかは分かりませんが、私は彼らを裏切ったのかもしれません。しかし、私も裏切られたと感じたのです。
その天的なものの有り様が覆い隠され、変質させられるのに我慢がならない気持ちにさせられたのです。
私はただ、どうしても、こうしてもあの天的世界のことを裏切る訳にはゆきません。私が私でなくなりますから…
私の精神的遍歴にはかように大いなる無駄、試行錯誤、幻滅、挫折がありました。
だが、私は内なる希求に従い、ほんの一瞬ながらも、その出どころ、源泉に触れることも出来たのです。
今後のことはどうなるかわかりませんが、すべては内なる生命の故だったことを思い起こせば、後悔などあろうはずはありません…。