”これは疑いようがない!”
と普通に言われたりしますね。
何かを目の当たりにしたら、そう感じるのでしょうけど、こういうのは大体目を疑うような事と裏表のことですね。
して一瞬目をこするなりしてみて、”ああやっぱり疑えない…”となります。
これはある事実を目の当たりにし、明るみになったら、そうなるしかない、と刷り込まれているからですね。皆”疑えない”と思っているのです。
しかし…
世の人は、文字通り疑うことが出来ない事態というものがあることなど思ってもみないのです。ああではないか、こうではないか…という事が根元から落ちてしまっている、そうなっている事態にすら”なんでそうなるのか?”という疑念はどこからも起きてこないのです!
これがこの世的には全く理解出来ない事なんです。
疑えないという事は信じることも出来ないという事です。疑う事と信じる事というのは実に裏表のことだという事が分かります。
どちらも思いの世界のことなんです。宗教というのはほとんどが信じ仰ぐことが根幹に据えられているものですが、信仰はこの壁の前に置いて行かなければならないのです。
疑う事も信じる事も出来ないという事態は、思いを超えて純粋意識(そう言われている)にあるという事です。
思いの限界内からはそういう事は起こるはずも無く、それを超えた恩寵の光、現臨、神的ハタラキによらずば起こり得ません。
今日、ノンデュアリティなどでこの直接経験を伝えるものが多く見られるようになりましたが、信じる宗教の時代の終わりを告げているようです。
又、この直接的な道では、所謂幽界とか霊界の消息(あれもスピ、これもスピ)とかについてはほとんど語られないのが特徴ですが、それらは中間的(思いの)世界だからでしょう。我々を取り巻く思いの層というものが段々薄くなってきているのを感じます。
思いを超えているという事は、個我を超えているという事に他なりません。
個我はそれで無くなる訳では無いですが、この現臨の前では全く何も為しようが無く、すべてを受け入れるしかありません。
全託という…全託しよう、とか出来ないとかというのは全くバカげた話で、全託する以外何も無いのです。
こういう事になっている時、この世的な意味での主体は全くこちらには無くあちら(ハタラキ自体)にあるのです。
この事態のことをスピ界隈では覚醒とか悟りとかワンネス体験とか言うそうです。
(私が強烈に実感したことは”目が覚めた!”という事でしたのでしばしば”目覚め”と言っています)
そして又、覚醒と悟りとは違うとか、いろいろ段階があって、究極的には最終解脱というのがあるとか色々議論もあるようです。
だけどねえ…こういった説明というのは、如何にも”覚醒とか悟りに到達する人とか段階を踏んでいく人が居る”という事を匂わしているんじゃないですか?…出来るんだったら大いに悟りなり、最終解脱を目指してほしいものです。
私自身、あの大いなる意志の方に主体が移っていくのを感じた事が有りましたが、だがこれは絶対に個我の立ち入れるものでも、帰すことも出来ないものなのです。
しかし私にも悟りたい人、より上の段階に居たい人になりたいという感情もよく分かります。自意識が黙ってないようなので…だからこそ見えざる導師のポリスマンが黙っていないのです!
今思っても、悟りというものを個我の支配権に取り込まれたりするくらいなら、フタ閉めされ、元の木阿弥になってしまう方がはるかにマシだと心底思えます。
悟りというものがあるのでなく、どこまでも遍く、どこまでも深く浸透する霊なる光の照射に預かるのみではないでしょうか?
恩寵というものが抜け落ちた時、疑いようのない恩恵の傍らでは、最も疑わしい神になったつもりの御仁を輩出してしまう事態が起こりかねなくなります。
恩寵無しでは何も始まらない…
こういう時代相だからこそ、何度もこの疑えない事実に立ち返りたいと感じています。
と普通に言われたりしますね。
何かを目の当たりにしたら、そう感じるのでしょうけど、こういうのは大体目を疑うような事と裏表のことですね。
して一瞬目をこするなりしてみて、”ああやっぱり疑えない…”となります。
これはある事実を目の当たりにし、明るみになったら、そうなるしかない、と刷り込まれているからですね。皆”疑えない”と思っているのです。
しかし…
世の人は、文字通り疑うことが出来ない事態というものがあることなど思ってもみないのです。ああではないか、こうではないか…という事が根元から落ちてしまっている、そうなっている事態にすら”なんでそうなるのか?”という疑念はどこからも起きてこないのです!
これがこの世的には全く理解出来ない事なんです。
疑えないという事は信じることも出来ないという事です。疑う事と信じる事というのは実に裏表のことだという事が分かります。
どちらも思いの世界のことなんです。宗教というのはほとんどが信じ仰ぐことが根幹に据えられているものですが、信仰はこの壁の前に置いて行かなければならないのです。
疑う事も信じる事も出来ないという事態は、思いを超えて純粋意識(そう言われている)にあるという事です。
思いの限界内からはそういう事は起こるはずも無く、それを超えた恩寵の光、現臨、神的ハタラキによらずば起こり得ません。
今日、ノンデュアリティなどでこの直接経験を伝えるものが多く見られるようになりましたが、信じる宗教の時代の終わりを告げているようです。
又、この直接的な道では、所謂幽界とか霊界の消息(あれもスピ、これもスピ)とかについてはほとんど語られないのが特徴ですが、それらは中間的(思いの)世界だからでしょう。我々を取り巻く思いの層というものが段々薄くなってきているのを感じます。
思いを超えているという事は、個我を超えているという事に他なりません。
個我はそれで無くなる訳では無いですが、この現臨の前では全く何も為しようが無く、すべてを受け入れるしかありません。
全託という…全託しよう、とか出来ないとかというのは全くバカげた話で、全託する以外何も無いのです。
こういう事になっている時、この世的な意味での主体は全くこちらには無くあちら(ハタラキ自体)にあるのです。
この事態のことをスピ界隈では覚醒とか悟りとかワンネス体験とか言うそうです。
(私が強烈に実感したことは”目が覚めた!”という事でしたのでしばしば”目覚め”と言っています)
そして又、覚醒と悟りとは違うとか、いろいろ段階があって、究極的には最終解脱というのがあるとか色々議論もあるようです。
だけどねえ…こういった説明というのは、如何にも”覚醒とか悟りに到達する人とか段階を踏んでいく人が居る”という事を匂わしているんじゃないですか?…出来るんだったら大いに悟りなり、最終解脱を目指してほしいものです。
私自身、あの大いなる意志の方に主体が移っていくのを感じた事が有りましたが、だがこれは絶対に個我の立ち入れるものでも、帰すことも出来ないものなのです。
しかし私にも悟りたい人、より上の段階に居たい人になりたいという感情もよく分かります。自意識が黙ってないようなので…だからこそ見えざる導師のポリスマンが黙っていないのです!
今思っても、悟りというものを個我の支配権に取り込まれたりするくらいなら、フタ閉めされ、元の木阿弥になってしまう方がはるかにマシだと心底思えます。
悟りというものがあるのでなく、どこまでも遍く、どこまでも深く浸透する霊なる光の照射に預かるのみではないでしょうか?
恩寵というものが抜け落ちた時、疑いようのない恩恵の傍らでは、最も疑わしい神になったつもりの御仁を輩出してしまう事態が起こりかねなくなります。
恩寵無しでは何も始まらない…
こういう時代相だからこそ、何度もこの疑えない事実に立ち返りたいと感じています。