人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

はからいでなしに

2017-04-15 00:04:27 | 仏教関連
「念仏は行者のために非行、非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからいにてつくる善にもあらざれば非善といふ」(歎異抄)

宗教的な道に関わると、誰もが今の自分は、こうあるべき自分に悖るので、心がけ、心持ちを変えなければならない、という思いに駆られるのではないでしょうか?
何かのお教えに触れて、恨み、憎しみ、エロさ、怠惰…次から次へと善くない、克服しないとならない心の性情が明るみに出され、”自分は間違っていた、罪なことだった…心を変えないと…”と悪い自分との終わりなき闘争の日々が始まる訳です。
又、その教え、例えばキリスト教だったら神の子イエスと通さなければ救われないと信じ、聖書の無謬性を認めるとか無理にでも自分の考えをその信仰に合わせようとするものです。
そうしないと神は許してくれない、自分は救われないと自分で思っているか、その宗派から思わされているからでしょう。
このような神経症じみたものでなくとも、心に調和をもたらしたい、愛深い気持ちを持ちたい…ということでも、やはり現状の心を変えたい、変えなきゃという思いが強く働くようです。果たして何人の人がこうあるべき自分になれるのかどうかわかりませんが…
私にも勿論こういう思い方というのは馴染みがあるものですが、ある時から自分の思いで自分を変えようという発想はほとんど持たなくなりました。
まず、それで心が変えられた試しがないですから。
しかし…変えようとしなくても、突然平安、愛に満たされてしまう事は知らされています。
心がけを変えようとか、出来そうにないことをしなくとも、いつも言うように意識を向けるとも、中から呼び覚まされるものに向いちゃうともいうような事で…
これは何かをやろうというような事じゃなく、自ずと思いを超えたハタラキと意識が合わさり、まさに無為的なものがハタラクという事です。
法然や親鸞の本願念仏とは、こういう消息を伝えているものでしょう。
阿弥陀仏を憶念する、というより回向させられるという事でしょう。
恨み、憎しみを持っていようと、思いは勝手に平安あるものへと振り向けられます。
いつもそうなるとは限らないですが、そうならなかったらならないで構わないのです。
至らない自分、罪な自分、そうならない自分が居る…そんな事よりも何よりも…
”自己を超えたものがある、生きハタライているものがある”という気付きがあるのです。
だから限界ある自己など問題にしなくなります。
こういう事で中々思うようにならない自分に対する不信、自己嫌悪に陥ることがありません。
スピなどでよく言われる”そのままでいい”とは、はからいで自分を変える必要がない、という事なのでしょう。
愛、平和、調和というものは我々の信念と努力によって実現するのではない…では我々が神仏に祈ることによって実現するのでしょうか?
神的ハタラキが我々が考える愛、平和、調和の実現に答えてくれるかどうかは、与り知れないのではないでしょうか?
そして、知らず知らずに我々の願望の実現のために、神をダシにするようなことをやっているのではないですか?
はからいから出たものは、はからいに捉われてしまう事になるでしょう。
信仰や修行に捉われ、神的なものそのものから意識が離れる事でそうなってしまうのです。
神的なものはそれ自体でハタライているものです。
神が存在して、何かを実現するのでなく、神ご自体が愛そのもの、平和そのもの、調和そのものなのです。
自己を超えたハタラキがこちらに通るという事があるだけです…こちらはただ受け入れ、まかせるのみ…
自然法爾な事は、当たり前すぎて気付かないものですね…。
















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