人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

第一義の神

2019-08-16 11:16:35 | 
神とは何か?
神を信じますか?

神と一口に言っても、様々な観方、感じ方があります。
"信じる"、ということについても。
ただ人がそう言っている神、素朴に"神は居るんだから信じましょう"というだけのものでしたら、唯一絶対の神だろうと、イワシの頭だろうと変わりはないでしょう。
存在しないものは信じられないでしょうか? それでしたら神はモノといっしょでしょう。
宗教で説かれる神は、A教の神は信じるが、B教の神は信じない、否定される...他の神を信じると地獄に行くとさえ説かれる。
神に背くとバチが当たり、地獄行きとなる...
こういう神はすべて人間が考え、存在している(やはりそう考えられている)ことを大前提にして、信じられているのです。
その人間というのは、現にここに生きている、実存しているあなたや私ではないのです。要するに神は、他人事の世界で説かれているに過ぎないのです。
哲学や神学で説かれる神は、宗教の盲信に比べれば、ずっと人間の知性、悟性に訴えるものがあり、その究め方次第によっては我々の実存に迫ることも可能でしょうが、概念に留まるままでしたら、実存は解明され得ないでしょう。
神への帰依を嫌う道では、宇宙の法則とか、オクターブのなんとかだとか法則、定理など"理"を究明しようとします。理神論というものがあるらしいですが、神も法則に当てはめて理解されているようです。ユークリッド幾何学みたいなものは理解出来ても、神的愛といったものは、永久に理解出来ないでしょう。
宗教の神も、哲学の神も、理学の神も、相対的有り様の中で各々存在理由はあるでしょう。
しかし、あなたや私にとっての第一義の神は、上記のような他人行儀な在り方では絶対にありやかになりません。
第一義の神とは、あなたに直接開かれる、顕わになる、あなたのうちに息づいている命そのもののことです。
一般通念だのは勿論のこと、頭脳明晰な学究的態度だの、信仰だの、修行だのが一体何になるでしょうか?
第一義の神とは何か? 実は私は分かりません。それが何かは答えられません。又、ある意味私は信じてないと言ってもいいのです。
それは、私が信じるとか、信じないとか、こちらの心情的なものを超えているものだからです。
信じなくとも、それが何であるか分からなくとも、感じることは出来ます。この感じはあらゆる思念を超えている、故に信じなくとも信じざるを得なくなってしまうのです。
これにより、私は思われた人間のように考え、存在していると、そのように前提として考えられていたことがひっくり返されるに至ります。
そして、こうであると、思われた神はすべて第二義以下のものになります。ことに人間が如何にこの世の神として君臨していたかということが思い知らされます。
神はこうであるとは決して言えない...それは他人でない、あなた自身に直接知らされることだから...
コメント
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