何度か書いていますが、私が小2の晩秋の頃、TVで「フランケンシュタインの怪物」を観て、その恐ろしさに囚われて、頭から離れなくなってしまい、生まれて初めてノイローゼ状態が続いたことがありました。
この時から、私は"思いというものは、自分からはどうにもならない、コントロールの効かない怪物のようなもの"ということを思い知らされたのです。
周囲の「そういうことを考えなければいいんだi 思い描くからダメなんだ」という声など、何らの助けにもならず、ただ白々しい思いにさせられるばかりでした。
中2の夏頃起きたのは、もっと奇っ怪で、特に何を観て(やはりTVで広島の原爆の猛威、惨状を観たことは、ショックでしたが、覚えている限りそれを引きずるということはありませんでした)、何に触れてそういうこと囚われる、ということもなかったのです。
この時、私の心を襲ったものは何かと言うと..."囚われる心それ自体"といったものです。お分かりだろうか?
"ああ、又囚われることがやってくる..."、囚われることをまるで"見に覚えて"いるみたいに、周期的にそんなことになってしまうのです。
これは一寸理解に苦しむことじゃありませんか? 全くです。こんなこと誰にも相談すること出来ません。
実際、兄にちょこっと言ったら、「何を言っているのか分からんi」となりました。
考えまいとすればするほど、深く絡まれてしまう、思いのガンジガラメ状態。私はこうなるのが自分の宿命と感じるようになりました。
このままではいずれ私は思いの重み、絡みに屈して、崩壊してしまうだろう...
"ああ...ヤツが又やって来る...何で又私はこんなケッタイな思いを背負わせられなきゃならないのか?"
いやはや、我が思いほど我が思いの通りにならないものはありません。
だから、いくら思い方を変えようとしても無駄ではないでしょうか。
思い自体に、自分の思いを超えたものが内包されているようですから...。
そうです。これは思いを超えたものの消息とパラレルになっているのです。
思い方を変えたり、そっちに意識を集中しようと励んだりしなくとも、ヤツは、否"あの御方"はやって来て下さるのです。
何という奇っ怪な、否神妙なことじゃありませんか?
これにより、思いが囚われるのでなしに、逆にそのくびきから解放されるのです。
私はこのように、宿業的な思いというものをイヤというほど知らされていたためか、精神的な道の探究で、意識集中や、意思想念をコントロールする修行などには全く関心が持てなかったのです。
そして身に覚えているように、思いを超えた"恩寵"というものを受け入れることが出来たのでしょう。
これは私の場合、そういう法縁があったということを述べているまでですが、実に業縁と法縁というものは、裏表のもののように感じざるを得ません。
自分から囚われた思いを手放すことは容易ではありません。
思いは自分でどうにも出来ない...このことを示されることが、手放せるものを頂く始めとなるでしょう。
この時から、私は"思いというものは、自分からはどうにもならない、コントロールの効かない怪物のようなもの"ということを思い知らされたのです。
周囲の「そういうことを考えなければいいんだi 思い描くからダメなんだ」という声など、何らの助けにもならず、ただ白々しい思いにさせられるばかりでした。
中2の夏頃起きたのは、もっと奇っ怪で、特に何を観て(やはりTVで広島の原爆の猛威、惨状を観たことは、ショックでしたが、覚えている限りそれを引きずるということはありませんでした)、何に触れてそういうこと囚われる、ということもなかったのです。
この時、私の心を襲ったものは何かと言うと..."囚われる心それ自体"といったものです。お分かりだろうか?
"ああ、又囚われることがやってくる..."、囚われることをまるで"見に覚えて"いるみたいに、周期的にそんなことになってしまうのです。
これは一寸理解に苦しむことじゃありませんか? 全くです。こんなこと誰にも相談すること出来ません。
実際、兄にちょこっと言ったら、「何を言っているのか分からんi」となりました。
考えまいとすればするほど、深く絡まれてしまう、思いのガンジガラメ状態。私はこうなるのが自分の宿命と感じるようになりました。
このままではいずれ私は思いの重み、絡みに屈して、崩壊してしまうだろう...
"ああ...ヤツが又やって来る...何で又私はこんなケッタイな思いを背負わせられなきゃならないのか?"
いやはや、我が思いほど我が思いの通りにならないものはありません。
だから、いくら思い方を変えようとしても無駄ではないでしょうか。
思い自体に、自分の思いを超えたものが内包されているようですから...。
そうです。これは思いを超えたものの消息とパラレルになっているのです。
思い方を変えたり、そっちに意識を集中しようと励んだりしなくとも、ヤツは、否"あの御方"はやって来て下さるのです。
何という奇っ怪な、否神妙なことじゃありませんか?
これにより、思いが囚われるのでなしに、逆にそのくびきから解放されるのです。
私はこのように、宿業的な思いというものをイヤというほど知らされていたためか、精神的な道の探究で、意識集中や、意思想念をコントロールする修行などには全く関心が持てなかったのです。
そして身に覚えているように、思いを超えた"恩寵"というものを受け入れることが出来たのでしょう。
これは私の場合、そういう法縁があったということを述べているまでですが、実に業縁と法縁というものは、裏表のもののように感じざるを得ません。
自分から囚われた思いを手放すことは容易ではありません。
思いは自分でどうにも出来ない...このことを示されることが、手放せるものを頂く始めとなるでしょう。