人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

すべて愛

2019-08-22 11:54:37 | 
「君にとって愛っていうのが唯一の、この世界そのものなんだ。この宇宙そのものだし、ほんとにある唯一のもの。そして愛の中には愛の愛があるわけね。それから愛の安心、それから愛の歓喜、愛の智恵、それから愛の力、愛の自由」
(君がどうかい?ー雨宮第慈講話録2ー.SCL刊)

愛というのは、人間存在がそうであるように、人知の理解の及ばないもののようです。
人間には知的機能というのがあります。モノを動かし、操る力がある。普通はこういうものは、感情といったものとは異なるので、愛と結び付けては考えられないものですね。
しかし、例えば哲学というものがありますが、その原意は"知を愛する"ということだと言います。
時に、そのように理屈っぽいことを言っていても、そういう表現をすることに酔いしれてしまうことがあるのは、如何に知性に乏しい私でも分かります(そうなると、論理の破綻などお構い無しになりますが)。
知性というのは、表層の奥では感性的なものと切り離されないものだということが分かります。
日常の労働の場で、技術を取得し、その力を使ったりすることにも、普段愛のことなど意識されないかもしれません。
しかし、全くそういうものの無い、社会生活など私には地獄のようにしか感じられません。
そりゃ報酬のためってのは大きいのでしょうけど、やっぱりそれを通じて、その向こうにあるものに触れるということがある訳で、仄かにも愛というものは、ハタライているのでしょう。
上のダンテスダイジの言葉は、我々が関わるもので"愛でないものなど何も無い"、と言っているに等しいのではないでしょうか?
哲学的知性にも、超能力的なものにも恵まれ、各種の修行法にも通じた彼がそう言っているのです。
自分にとって愛とは何かが分からない、というのは全くどうかしていますi
「僕はこれが好きだ」(同書)
愛と切り離された時に理屈に、功利、打算に、支配、因習などに堕してしまうのです。
人からは称賛されたりして、その堕落に気付きにくいものは、悟りとか人類救済とか"御大義なこと"です。
これはとどのつまりは、"自分自身を愛していない"ということに尽きるのではないか...別のもの、他におもねってしまう。他が何を言おうと、どこまでも自分にとってどうかということなのです。
私がよく"現臨に捉えられる"、"惹き付けられてやまない"とか言っていることというのは、言うまでもないですが、自分の自由意志に反して、神的な意志に従うというようなことでは全くありません。従わすものと従うものの二つは無いのです。
むしろそうでないもの、本当の自分の意志のフリした、第一義でないものに囚われた意識状態から解放されるようなことなのです。
確かに何ものかに突き動かされる、させられるという感じはありますが、無理強いとか支配されるとか自己犠牲というものはいささかもありません。
そのようなものがあったとしても、真の自由意志からそうなるまでです。

スピ界隈には、愛についての言葉に溢れかえっていて、一寸言うのを憚るものがあります。
いや、だからこそ、言わずにおれない...
あなたにとってホントに、ホントに惹かれてやまないものは、そんなに安っぽくはないはずだ、と...。
コメント
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