人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

目の当たりにすること

2019-08-29 11:50:40 | スピリチュアル?
メシを食べる時に、食物は胃腸に送り込まれ、消化液が分泌されて云々...とかいちいち考えてなどいないでしょう。
そういう理が分かったからといって、ちっとも腹の足しになりゃしません。
映画を観ている時に、隣でこの監督の作風はどうだの、カメラワークがどうだの、ウンチク垂れ出したらうっとおしくてしょうがないでしょう。
映画ってものは頭で観る訳じゃないのです。
"幸福に感じたり、精神的目覚めが起こるのは、脳内物質が分泌されるから"...こういうことは、何か実証でもされたのでしょうか?...実証した人は多分悟った人以上に悟った人なんでしょう?
しかし、それが実証されようと、されまいと現実にそういうことを目の当たりにする人間には何の関係もありません。
客観的科学の世界と違って、精神世界に関することはより一層そう言えることでしょう。
目の当たりにする、ということは全く理を超えていること、直接ブチ当たるようなことです。
"私は神を信じているが、それが正しい神なのか、低い神なのか...こっちの意に沿わなかったら、別の神に変えよう..."なんてトンマも中には居るかも知れませんが、ある人にとっての真実の神とは直にまみえる、実存的な神以外に有り得ようはずがありません。
神が宇宙の法則だろうと、支配者だろうと、この直にまみえることとは関係無いのです。信仰、修行ですらも直接関係無いでしょう。

私はしかし、幼い頃から、この直に触れる、まみえるという感じが掴めなくて、いつもジリジリ悶えする思いで居たのです。
"本当にあるものに触れるとは一体どういうことなのか?"
"自分が直接関わるとは、一体どういう在り方なのか?"
今から思えば、どっかでそういう感じを知っていて、現実世界では、その感じを失い、それに触れることが出来ない、という不十全感に苛まれていたようです。
"私の世界は、かくも無機質なもので溢れていたのだろうか?"
こちらからいくら求めど、探せどそれを掴むことは出来なかったのです。
どんなに掴もうとしても、ザルのようにこの手から落ちて行く...よしんば"掴んだぞi("むぎゅi" な、何を?)ということがあっても、何か違う..."がつーんi"とこちらのまっ中心に響いてこない...
"ブチ当たれi、投げ出せi"と言われても、どこにそうしていいのかが分かりませんi
そんなこんなで、初めて求めていたそのものを目の当たりにしたのは、36年前の今頃の時節でした。
掴もうとするのでなく、捉えられることで、与ることが出来たのです。
手を離させ、全身心を投げ出させる、そうさせるそのものにまみえたのでした。こういうことが研究だの、理論だの、"誰かがそう言った"だので、分かってたまるかってんですi
我が主から始まることなんですi
直接的でない、挟雑なものに囚われ、自身の主に開こうとする気がなければ、どうしようもないことでしょう。
コメント
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