「本願は考えるものではない。本当の意味で本願こそ宿業です。...宿業をもって自己自身とする本願こそ本当の宿業といえる」(安田理深/信仰についての問と答.文明堂刊)
"本願"とか"帰命"など、浄土系仏教で伝えられている教えですが、私は元々あまりそちらには直接縁がなく、主として小池辰雄先生の"キリスト道"を通じて親しんでいたのです。
又、関わりのあった大調和協会の創始者松本命御様は真宗に縁があり、講話などでしばしばそうした題材を取り上げておられたし、古い会員さんもその縁の方が多かったのです。
こうしたところからか、私は自然にこの周辺に息づいている道念みたいなものが身についたようでもあり、もともとそういう宿業を背負っていたということなのでしょう。
だからこそ、そういう道に導かれたということなのでしょうから...宿業。
業といえば、大方はネガティブに受け取られ、それを嫌い、その絡みから離れようとしたりするものです。
今、災難、苦難に見舞われていたら、そのように赴くのは当然のことでしょう。
しかし、宿命という言葉からも伺えるように、自分のもって生まれた性格とか、"どうしてもそうしちゃう、そうなっちゃう"、日常の性行とかは、容易に変えられないものです。
求道的な人は、"そういうのは本来の自分じゃないのだから、否定し、消さなければ救いも悟りも得られず、真我に目覚めることは出来ない"、と思い、イロイロ試みようとするかもしれません。
私なども、自分のいつも思いがガンジガラメになる性質をどんなに呪ったことでしょうか...思うまい、離れよう、逃れようとするほど、余計その絡みに嵌まってしまうよう...
自分からそれを否定し、無くそうとする試みは、すべて業の前では撥ね付けられ、無駄なことのようにしか感じません。
これが宿業というものか...ニセモノか本当かは知らないが、そうなっている現実から、この自己は離れることは出来ないのです。
そこで例えば、"いいや、これは捨て去るべき偽我であり、私は本来神の子で、完全円満なのだ"、と懸命に思おうとするのは、文字通り思いの世界で描いているだけです。
これは、現実を否定し、受け入れようとしない、ということで、現実の自己を受け入れないということになります。
この宿業を否定したところに、この思われた自己に先立つ、神的なものの発現、真我の目覚めなどあり得るでしょうか? むしろますますそれらを覆い隠し、離れて行ってしまうことにならないでしょうか? そこには、本当に"まかせる"という契機は生まれません。
そうなっている現実、自己を受け入れたところに、そこから離れ、超えられる契機が開かれるのです。
これは思われた自己の沙汰じゃなく、こちらに先立ち、導こうとしている本願的なものに依るのでしょう。
私の場合、容易に思いに囚われる性質が、容易に思いを超えたものに捉えられる性質に化してしまったようなのです。これは全く裏返しみたいなものです。
こういう種は、忌まわしき宿業の中に包まれてあったのです。この宿業を生きていたからこそ、本願にまみえることが出来るのです。
良くも悪くも、縺れたような業的つながりにある人生、しかし、そこに神仏とのつながりが芽をだすこともある...
結局、ありのままの自己を信頼するということに尽きるでしょう。そこに自己を超えたもの、神仏への信頼も生まれ、"まかせる"という心持ちも生まれるのでしょう。
"本願"とか"帰命"など、浄土系仏教で伝えられている教えですが、私は元々あまりそちらには直接縁がなく、主として小池辰雄先生の"キリスト道"を通じて親しんでいたのです。
又、関わりのあった大調和協会の創始者松本命御様は真宗に縁があり、講話などでしばしばそうした題材を取り上げておられたし、古い会員さんもその縁の方が多かったのです。
こうしたところからか、私は自然にこの周辺に息づいている道念みたいなものが身についたようでもあり、もともとそういう宿業を背負っていたということなのでしょう。
だからこそ、そういう道に導かれたということなのでしょうから...宿業。
業といえば、大方はネガティブに受け取られ、それを嫌い、その絡みから離れようとしたりするものです。
今、災難、苦難に見舞われていたら、そのように赴くのは当然のことでしょう。
しかし、宿命という言葉からも伺えるように、自分のもって生まれた性格とか、"どうしてもそうしちゃう、そうなっちゃう"、日常の性行とかは、容易に変えられないものです。
求道的な人は、"そういうのは本来の自分じゃないのだから、否定し、消さなければ救いも悟りも得られず、真我に目覚めることは出来ない"、と思い、イロイロ試みようとするかもしれません。
私なども、自分のいつも思いがガンジガラメになる性質をどんなに呪ったことでしょうか...思うまい、離れよう、逃れようとするほど、余計その絡みに嵌まってしまうよう...
自分からそれを否定し、無くそうとする試みは、すべて業の前では撥ね付けられ、無駄なことのようにしか感じません。
これが宿業というものか...ニセモノか本当かは知らないが、そうなっている現実から、この自己は離れることは出来ないのです。
そこで例えば、"いいや、これは捨て去るべき偽我であり、私は本来神の子で、完全円満なのだ"、と懸命に思おうとするのは、文字通り思いの世界で描いているだけです。
これは、現実を否定し、受け入れようとしない、ということで、現実の自己を受け入れないということになります。
この宿業を否定したところに、この思われた自己に先立つ、神的なものの発現、真我の目覚めなどあり得るでしょうか? むしろますますそれらを覆い隠し、離れて行ってしまうことにならないでしょうか? そこには、本当に"まかせる"という契機は生まれません。
そうなっている現実、自己を受け入れたところに、そこから離れ、超えられる契機が開かれるのです。
これは思われた自己の沙汰じゃなく、こちらに先立ち、導こうとしている本願的なものに依るのでしょう。
私の場合、容易に思いに囚われる性質が、容易に思いを超えたものに捉えられる性質に化してしまったようなのです。これは全く裏返しみたいなものです。
こういう種は、忌まわしき宿業の中に包まれてあったのです。この宿業を生きていたからこそ、本願にまみえることが出来るのです。
良くも悪くも、縺れたような業的つながりにある人生、しかし、そこに神仏とのつながりが芽をだすこともある...
結局、ありのままの自己を信頼するということに尽きるでしょう。そこに自己を超えたもの、神仏への信頼も生まれ、"まかせる"という心持ちも生まれるのでしょう。