人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

根本的幸福状態

2020-07-16 11:49:12 | 覚醒
悟りとか覚醒という言葉は漠然としていて、その観方、感じ方というのはマチマチなのです。
この他一瞥とかワンネス体験というのもあり、それらが同じものとして語られたりもしますが、近年では一瞥とか覚醒というのは、中途の段階であり、より進んだ段階が悟りである、という観方が増えてきたようです。
しかし、それらのことは全く日常の意識状態、思いを超えたものであり、こういう解釈はあたかも自分の意志で、修行に則ってその段階を進められるかのようなイメージを与えてしまうようです。
言うまでもなく、自分の意志で悟る、目覚めることはおろか、自分の思考を止めることすら出来ないのです。
又、こうしたものに段階、レベルといった基準を持ち込むこと自体が、"自分が"という意識の表れを感じないでもありません。
そして又、悟りの最終段階、最終解脱というものが、自我意識というものが完全に無くなって、幸福感というものすら感じなくなってしまうとしたら、そもそも"段々高度になってゆく"、というような基準を持ち込む意味も無くなってしまうのではないでしょうか?
死んだらどうなるか分かりませんが、我々は"目の黒いうち"のことを考え、感じていればいいのではないでしょうか?
生きている人間は、誰でも幸福になることを望んでいるのでしょう? 悟りや覚醒もそのことと結びついているのも分かりきった話なのです。
まだ邦訳が無いようですが、多くの覚醒(悟り)経験者の報告を基に研究している、「ジェフリー.マーティン」という米国の心理学者は、「人間が一番幸福な状態とは、最終段階の一歩手前の段階ではないだろうか?」と述べていますが、それは、彼が"根本的幸福状態"(Fundamental.Well-being)と呼ぶ意識がずっと継続している段階なのだそうです。実は彼は段階という言い方は避けて、"location"(これは一つの在り方、又は置かれた場所というような意味でしょうか?)という言い方をしていて、前記したようなことを含ませているようなのです。
この状態こそ、ラマナ.マハルシなどが言っていた、表層的な境遇如何に関わらず、何かを得たり、失うことに左右されるような幸福でない、本来的な幸福に他なりません。本来的というのは、それが人間の本来の在り方ということでもあります。
ということは、そういう境地を目指して到達されるようなものではない、ということです。
本来なるものから切り離されて、"自分が"何かに到達しようとすることで、その自分は完全消滅してしまうのでしょうか?
それが幸福なことなのか、どうかは分かりません。
人間は本来、その在り方も生きること自体も、"与えられてある"ものであり、その源、大本と共にあることが根本的"location"というものなのでしょう。
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