いつも言っているように、精神的目覚めや神的な命とつながる上においては、意識の在り方というものが極めて重要なことです。
意識的になる(である)ことは、しばしば主体性ということと結びつけられていますが、玉城康四郎先生は、"形なき命~ダンマは主体に顕わになる"と言い、ベルジャーエフも同様に"聖霊は主体的人格に働く"、と強調している通りです。
これに関して企業などでは、社員教育として"意識を持って、主体的に行動せよi"、などと何をどう行動していいのかわからんことを言われるのですが、どうもそれは、自分がその仕事のやり主になるとか自己責任を持つとか、そういうことを"思わせる、させる"ことらしいです。
そんなんは、私にゃギマンにしか感じられませんi...何で企業側がやらそうとすることが、ホントのその人の主体性と関わるというのでしょうか?
その人が本当に"上司に言われたから、仕事だから、生活のためだから"、という思いから離れて、本当に自ずから、自発的にそう取り組むのであれば(そんな聖人みたいな人居るのかどうか知りませんが)、何も言うことはありませんが...
この場合の意識的、主体的ということは、"やらせ"とは何の関わりもないことです。それだけで、如何にこの世の中はそういうことが"意識されていない"かが知れようというものですi
まず、主体的であることは、自由であることと言わねばなりません。従って、ある教えに"従わなければ、修行しなければ..."と囚われていたり、狂信している者には中々開かれないものです。
又、自己責任ということに関して、ある意味ではそうかもしれませんが...人間てそもそも、自分自身に関わることでも責任持てる人なんか居るでしょうか?...これは"すべてを自分自身のこととして受け取る、受け入れる"というようなニュアンスのものだと思います。
逆に言えば、例えば"あの教えを信じて、従ったのに何も良いことは無かった、予言が外れたのでもう信じない..."といった心的態度は、相手に依存しているのであり、ちっとも主体的な在り方ではない、ということです。
又、自分自身のことと即していない、"今、ここに居る"自己と何の関わりも無い、前世や未来や異次元などのことに思いがいつも囚われている意識状態にも言えることです。
これらは、意識が絶えず外に向けられ、表層的思考に囚われている状態なのですが、いつも言うように自分のその閉ざされた思考からは、それを超えることが出来ません。
だから、くどいように意識を神的なものに向けるとか言っている訳ですが...これがいつの間にか、自ずと向いちゃったりするのです。
そうさせるものがある...それを現臨と呼んでいる訳で...
それは、先の企業がそうさせることとは丸っきり違うことですよi...そこには自由が、愛が、平安が、リアリティがあるi
そして、それまで思い描いていた世界が一変するi
"意識が変われば、世界が変わる"とは、この意味で真実と言わねばなりません。
我々にとって真実の世界とは、現臨と共にある世界のことなのでしょう。
それは、他の誰でもない、主体性を持ったあなた自身の世界に他ならないでしょう。
意識的になる(である)ことは、しばしば主体性ということと結びつけられていますが、玉城康四郎先生は、"形なき命~ダンマは主体に顕わになる"と言い、ベルジャーエフも同様に"聖霊は主体的人格に働く"、と強調している通りです。
これに関して企業などでは、社員教育として"意識を持って、主体的に行動せよi"、などと何をどう行動していいのかわからんことを言われるのですが、どうもそれは、自分がその仕事のやり主になるとか自己責任を持つとか、そういうことを"思わせる、させる"ことらしいです。
そんなんは、私にゃギマンにしか感じられませんi...何で企業側がやらそうとすることが、ホントのその人の主体性と関わるというのでしょうか?
その人が本当に"上司に言われたから、仕事だから、生活のためだから"、という思いから離れて、本当に自ずから、自発的にそう取り組むのであれば(そんな聖人みたいな人居るのかどうか知りませんが)、何も言うことはありませんが...
この場合の意識的、主体的ということは、"やらせ"とは何の関わりもないことです。それだけで、如何にこの世の中はそういうことが"意識されていない"かが知れようというものですi
まず、主体的であることは、自由であることと言わねばなりません。従って、ある教えに"従わなければ、修行しなければ..."と囚われていたり、狂信している者には中々開かれないものです。
又、自己責任ということに関して、ある意味ではそうかもしれませんが...人間てそもそも、自分自身に関わることでも責任持てる人なんか居るでしょうか?...これは"すべてを自分自身のこととして受け取る、受け入れる"というようなニュアンスのものだと思います。
逆に言えば、例えば"あの教えを信じて、従ったのに何も良いことは無かった、予言が外れたのでもう信じない..."といった心的態度は、相手に依存しているのであり、ちっとも主体的な在り方ではない、ということです。
又、自分自身のことと即していない、"今、ここに居る"自己と何の関わりも無い、前世や未来や異次元などのことに思いがいつも囚われている意識状態にも言えることです。
これらは、意識が絶えず外に向けられ、表層的思考に囚われている状態なのですが、いつも言うように自分のその閉ざされた思考からは、それを超えることが出来ません。
だから、くどいように意識を神的なものに向けるとか言っている訳ですが...これがいつの間にか、自ずと向いちゃったりするのです。
そうさせるものがある...それを現臨と呼んでいる訳で...
それは、先の企業がそうさせることとは丸っきり違うことですよi...そこには自由が、愛が、平安が、リアリティがあるi
そして、それまで思い描いていた世界が一変するi
"意識が変われば、世界が変わる"とは、この意味で真実と言わねばなりません。
我々にとって真実の世界とは、現臨と共にある世界のことなのでしょう。
それは、他の誰でもない、主体性を持ったあなた自身の世界に他ならないでしょう。