私が信ずる
私が修行する
私が悟る
私が霊的進化する...
よくよく考えてみて、"私が"しようとしたことで、愛、平安に導かれたことはほとんどありません。
この私が前に出てしまっている限り...
この私は愛、平安、リアリティというものが本当には分からないのです。
"こう信じれば、こうやれば、得られる、到達出来る"、と思いの中で勝手に想像することしか出来ません。
そして、"この私が退かない限りは..."という偉大なる気付きを得ることもあるのですが、それもこの私が退けようと企てようとするのですから、どこまでも堂々巡りの繰り返し...
しかし...何を信じるでも、求めるでも、行動するでもなしに、"私が"離れている時に、フイに愛を、喜びを感じることが度々ありました。
どうしてそうなるのかが分かりません。
ただ、そうなっていることを感じ、受け入れるしかありません。
そんなことがいくつか重なっていくうちに、この私でなく、別の何かがそういうことを導いていることに気が付きました。
"愛、平安、リアリティはこの導きと共にあるのだi"、と。
この"導かれる"、ということがすべてを言い表しているのではないでしょうか?
それは、この私の主導によるものではけっして無い、ということです。
そして、いつのまにか、その導きに自ずと意識が向けられるようになったのです。
私が意識を向けようとするのでなしに、向けられる、向いちゃうのです。
もはや、"私が"ではないi
もはや、私の信仰も、私の修行も、私の悟りも、私の霊的進化もどうでもいいi
我が主が臨めば、"私が"引っ込められる...引っ込めようとしなくても...
この私が私から放たれれば...我が主は、真の私としてここに在る...
もはや、私ではない...
私が修行する
私が悟る
私が霊的進化する...
よくよく考えてみて、"私が"しようとしたことで、愛、平安に導かれたことはほとんどありません。
この私が前に出てしまっている限り...
この私は愛、平安、リアリティというものが本当には分からないのです。
"こう信じれば、こうやれば、得られる、到達出来る"、と思いの中で勝手に想像することしか出来ません。
そして、"この私が退かない限りは..."という偉大なる気付きを得ることもあるのですが、それもこの私が退けようと企てようとするのですから、どこまでも堂々巡りの繰り返し...
しかし...何を信じるでも、求めるでも、行動するでもなしに、"私が"離れている時に、フイに愛を、喜びを感じることが度々ありました。
どうしてそうなるのかが分かりません。
ただ、そうなっていることを感じ、受け入れるしかありません。
そんなことがいくつか重なっていくうちに、この私でなく、別の何かがそういうことを導いていることに気が付きました。
"愛、平安、リアリティはこの導きと共にあるのだi"、と。
この"導かれる"、ということがすべてを言い表しているのではないでしょうか?
それは、この私の主導によるものではけっして無い、ということです。
そして、いつのまにか、その導きに自ずと意識が向けられるようになったのです。
私が意識を向けようとするのでなしに、向けられる、向いちゃうのです。
もはや、"私が"ではないi
もはや、私の信仰も、私の修行も、私の悟りも、私の霊的進化もどうでもいいi
我が主が臨めば、"私が"引っ込められる...引っ込めようとしなくても...
この私が私から放たれれば...我が主は、真の私としてここに在る...
もはや、私ではない...