私はこれまで精神的な道において、人生の教師たちなどを通じて、幾つか全身心が震えるような高揚感、至福感を覚えるような教えに接してきました。
その精神的嵐が通りすぎると、"ああいうものは一時の感動なのかな"、くらいに思ったこともあったのですが、これが実に今もなお、忘れていないのです。
数十年前のことが、今のアリアリとした現実のようによみがえってくるのですが、それは現在、そういうものを感じているということでもあり、過去、現在がそれにより一つに連なっているように感じられるのです。
こうした縁というものは、実にこの私の中に息づいているものを呼び覚まさずにおれないものがあるのです。
これは、単なる思念的な記憶とは別の、もっと深い意識に根ざした、"身に覚える"ようなところから来るのでしょう。
私の精神的な道は、こういうものに導かれて来たと言っても過言ではないのです。
一方で、思念を巡らし、信じ込むことで、ある種の"信仰"となるような、例えば、霊界には何段階ものレベルがあるとか、誰某の前世は何々といった、直接内奥に響かないような教説などは何も残っていません。
もっともそれらは身が震えるような感動を覚えたことも一度も無いのですが...。
宗教やスピには、それこそゴマンと様々な教説があります。真偽も確かめられないほど迷いそうなくらいです。
これは私にも少し思い当たるフシはあることなのですが、先のように一時、身も震えるような感激を覚えることもあっても、それから覚めると、別のそういうものとは質の違う、好奇心をくすぐるような教え、あるいは現世の生活に結び付く実用性のありそうな教え、あるいはただ高遠そうなだけの知的満足を煽るような教え...に目移りしてしまい、あのより深く感じられたことも、諸々の教えの中の一つというくらいにしか思わなくなったりすることもあるものです。
いや、私の場合もそうだったように、その身震いするような教えからして、一つや二つじゃない複数の教師からもたらされるのですから、それだけでそう取ってしまうことにもなったりするのです。
ここに思念の堂々巡りをし続けるか、思いを超えた導きに与るかの分岐点があるのですi
世の中には諸々の教えがある、幾つもの道があると思うのは、まさしくそう思い巡らしているからなのです。
しかし、人生の裏側の扉を叩き、足を踏み入れるのは、あなた一人しか居ないのです。
機縁となるものは、複数あってもあなたの内奥に息づいているものを揺さぶるものは一つしかないのです。
この一なるものはけっして諸々の中の一ではありません。言うなれば、すべてで一なるもののことです。従ってその一なるものに固執して狂信的になることもありません。
常に薄っぺらな思いの堂々巡りをし続けるのも、頑なな狂信者になってしまうのも、本当に忘れてはならないことが意識に根付くことなく、どうでもいいことに思念で覆われてしまうからでしょう。
ふと身が震える、いつのまにか全身心に浸透してくる...それは全く思いを超えたものに出くわしていることに他なりません。
こうして、人生で本当に大切な機縁を自ら反古にしてしまう人は居やしないでしょうか?
しかしながら、一度、思いを超えて身に覚えていることというのは、たとえ、忘れるようなことがあっても、種火のようにいつまでも残っているものです。ずっと内奥に息づいているものなのだから...
それが覚えられることなく、点火される機会も無くなってしまうとしたら、これほどの人生の不覚は無いでしょう。
しばし、ハートに耳を澄ませば、こんなラブコールが聞こえてこないでしょうか?
"忘れないでi"
その精神的嵐が通りすぎると、"ああいうものは一時の感動なのかな"、くらいに思ったこともあったのですが、これが実に今もなお、忘れていないのです。
数十年前のことが、今のアリアリとした現実のようによみがえってくるのですが、それは現在、そういうものを感じているということでもあり、過去、現在がそれにより一つに連なっているように感じられるのです。
こうした縁というものは、実にこの私の中に息づいているものを呼び覚まさずにおれないものがあるのです。
これは、単なる思念的な記憶とは別の、もっと深い意識に根ざした、"身に覚える"ようなところから来るのでしょう。
私の精神的な道は、こういうものに導かれて来たと言っても過言ではないのです。
一方で、思念を巡らし、信じ込むことで、ある種の"信仰"となるような、例えば、霊界には何段階ものレベルがあるとか、誰某の前世は何々といった、直接内奥に響かないような教説などは何も残っていません。
もっともそれらは身が震えるような感動を覚えたことも一度も無いのですが...。
宗教やスピには、それこそゴマンと様々な教説があります。真偽も確かめられないほど迷いそうなくらいです。
これは私にも少し思い当たるフシはあることなのですが、先のように一時、身も震えるような感激を覚えることもあっても、それから覚めると、別のそういうものとは質の違う、好奇心をくすぐるような教え、あるいは現世の生活に結び付く実用性のありそうな教え、あるいはただ高遠そうなだけの知的満足を煽るような教え...に目移りしてしまい、あのより深く感じられたことも、諸々の教えの中の一つというくらいにしか思わなくなったりすることもあるものです。
いや、私の場合もそうだったように、その身震いするような教えからして、一つや二つじゃない複数の教師からもたらされるのですから、それだけでそう取ってしまうことにもなったりするのです。
ここに思念の堂々巡りをし続けるか、思いを超えた導きに与るかの分岐点があるのですi
世の中には諸々の教えがある、幾つもの道があると思うのは、まさしくそう思い巡らしているからなのです。
しかし、人生の裏側の扉を叩き、足を踏み入れるのは、あなた一人しか居ないのです。
機縁となるものは、複数あってもあなたの内奥に息づいているものを揺さぶるものは一つしかないのです。
この一なるものはけっして諸々の中の一ではありません。言うなれば、すべてで一なるもののことです。従ってその一なるものに固執して狂信的になることもありません。
常に薄っぺらな思いの堂々巡りをし続けるのも、頑なな狂信者になってしまうのも、本当に忘れてはならないことが意識に根付くことなく、どうでもいいことに思念で覆われてしまうからでしょう。
ふと身が震える、いつのまにか全身心に浸透してくる...それは全く思いを超えたものに出くわしていることに他なりません。
こうして、人生で本当に大切な機縁を自ら反古にしてしまう人は居やしないでしょうか?
しかしながら、一度、思いを超えて身に覚えていることというのは、たとえ、忘れるようなことがあっても、種火のようにいつまでも残っているものです。ずっと内奥に息づいているものなのだから...
それが覚えられることなく、点火される機会も無くなってしまうとしたら、これほどの人生の不覚は無いでしょう。
しばし、ハートに耳を澄ませば、こんなラブコールが聞こえてこないでしょうか?
"忘れないでi"