ここ数年、ネットを中心に中二病なる言葉が頻繁に聞かれるようになりましたが、そう、確かにあの頃はマセていました。背伸びをしたがっていました。だからこそ、その出たがろう、目立ちたがろうとする頭を否応なしに引っ込めさせられるようなことが起きたのでしょう。
それはまさしく中二の夏のこと、夏休みに入った直後のことだったと思います。
医者に見てもらった訳でないので、病気の診断は受けてませんでしたが、あれはきっと病気だったと思います。それが二ヶ月以上に渡って私の心を苛み続けたのですから...
その時の私の精神状態のことは、医者は勿論、家族にも友人にも打ち明けることは出来ませんでした。だってどう説明していいのか分からなかったのですから...言うのは難しいし、恥ずかしいし...
"あることが頭から離れなくなって悩みを抱えてしまう"...それは多分、医学的には"ノイローゼ"ということになるでしょう。そしてそれは、家族のことや仕事のことなど、そのある特定の問題に思念が囚われ、絡まってしまう、というのがフツーでしょう。
しかし、この時の私は何が問題だったのか分からなかったのですi
一つには夏休みの前に学校でイジメを受けていた、ということはありました。けれどその時は、その二学期以降の時と比べてそんなに深刻でもありませんでした。
又テレビで広島、長崎の原爆の生々しい様相が映し出されていたのを観て、とてもショックを受けたりもしました。
そして又、最初全く原因が分からないまま喉、目の痛み、めまい等に突然教われ、その後判明したもので、都内で初めての光化学スモッグの猛威を目の当たりにしたことがありました。
"東京の空には、どんよりと訳の分からない有毒な霧が立ち込めていた..." これはまさしく私の頭の中のことのようでもあったのです。
とにかく、このように衝撃的、不可解なことにこの時期、相次いで見舞われ、いつの間にかおもーく絡み付くようなものに私の心は支配されてしまったのです。
一体、何が問題なのか? うー...どうしよう、でも...言いましょう! 何かの具体的な事象が問題なのではなく、この重く、絡み付く思念に常に苛まれること自体が問題なのです。だから、説明するのは、ちと困難なのです。
"ヤツはどっからともなく、忍び寄って来る..そしてヤツの魔の手がかかればもはや逃れることは出来ないのだi..."
これが分かったら多分、いつも言っている、"意識が神に向かえば、思いを超えられる"、ということも分かるでしょう。
そう、これらのことは、全く私には裏表のもののように思えるのです。
だんだん思念に絡まってハマり込んでゆくことと、パッとその思いから解放されることとは真逆のことではありますが...
おそらくは、ああいうケッタイな病は表層の意識よりも、もっと深いところで"淀み"にハマることから来るのでしょう。そうしたことが原体験として意識に刻まれ、それに意識が向かうことにより、それ次第によっては、心の領域は天と地ほどの違いをもたらすことになるのでしょう。
このことがあって、例えば、"そういうことは思わなければいいんだ、心持ちを変えればいいんだ..."、という、自分の力でどうにかなる式の楽観的な対処法など、思いのガンジガラメ地獄には全く無力だ、ということを思い知らされたのでした。
"自分の思いのことは、その思いによってはどうともならないi"...それは思いを超えたものの消息を予想するものではあるまいか?
私は知らずにそのものの訪れを待ち望んでいたのかもしれません。そのものよってしかあの地獄からは救われないんだ、と...
して、そのケッタイな私の脳内の霧は、どうなったかと言うと...その年の長く、暑い日々がようやく終わった、九月の終わり、その淀んだ空気と乾いた秋の空気が入れ替わった頃、いつの間にか晴れてしまったのでした。それはやはり私の思いを超えたところから来たのです。
全くどうと言うことも無いような、こんな深刻なことも又無いような...
何とも不可解な中二の夏なのでした。
それはまさしく中二の夏のこと、夏休みに入った直後のことだったと思います。
医者に見てもらった訳でないので、病気の診断は受けてませんでしたが、あれはきっと病気だったと思います。それが二ヶ月以上に渡って私の心を苛み続けたのですから...
その時の私の精神状態のことは、医者は勿論、家族にも友人にも打ち明けることは出来ませんでした。だってどう説明していいのか分からなかったのですから...言うのは難しいし、恥ずかしいし...
"あることが頭から離れなくなって悩みを抱えてしまう"...それは多分、医学的には"ノイローゼ"ということになるでしょう。そしてそれは、家族のことや仕事のことなど、そのある特定の問題に思念が囚われ、絡まってしまう、というのがフツーでしょう。
しかし、この時の私は何が問題だったのか分からなかったのですi
一つには夏休みの前に学校でイジメを受けていた、ということはありました。けれどその時は、その二学期以降の時と比べてそんなに深刻でもありませんでした。
又テレビで広島、長崎の原爆の生々しい様相が映し出されていたのを観て、とてもショックを受けたりもしました。
そして又、最初全く原因が分からないまま喉、目の痛み、めまい等に突然教われ、その後判明したもので、都内で初めての光化学スモッグの猛威を目の当たりにしたことがありました。
"東京の空には、どんよりと訳の分からない有毒な霧が立ち込めていた..." これはまさしく私の頭の中のことのようでもあったのです。
とにかく、このように衝撃的、不可解なことにこの時期、相次いで見舞われ、いつの間にかおもーく絡み付くようなものに私の心は支配されてしまったのです。
一体、何が問題なのか? うー...どうしよう、でも...言いましょう! 何かの具体的な事象が問題なのではなく、この重く、絡み付く思念に常に苛まれること自体が問題なのです。だから、説明するのは、ちと困難なのです。
"ヤツはどっからともなく、忍び寄って来る..そしてヤツの魔の手がかかればもはや逃れることは出来ないのだi..."
これが分かったら多分、いつも言っている、"意識が神に向かえば、思いを超えられる"、ということも分かるでしょう。
そう、これらのことは、全く私には裏表のもののように思えるのです。
だんだん思念に絡まってハマり込んでゆくことと、パッとその思いから解放されることとは真逆のことではありますが...
おそらくは、ああいうケッタイな病は表層の意識よりも、もっと深いところで"淀み"にハマることから来るのでしょう。そうしたことが原体験として意識に刻まれ、それに意識が向かうことにより、それ次第によっては、心の領域は天と地ほどの違いをもたらすことになるのでしょう。
このことがあって、例えば、"そういうことは思わなければいいんだ、心持ちを変えればいいんだ..."、という、自分の力でどうにかなる式の楽観的な対処法など、思いのガンジガラメ地獄には全く無力だ、ということを思い知らされたのでした。
"自分の思いのことは、その思いによってはどうともならないi"...それは思いを超えたものの消息を予想するものではあるまいか?
私は知らずにそのものの訪れを待ち望んでいたのかもしれません。そのものよってしかあの地獄からは救われないんだ、と...
して、そのケッタイな私の脳内の霧は、どうなったかと言うと...その年の長く、暑い日々がようやく終わった、九月の終わり、その淀んだ空気と乾いた秋の空気が入れ替わった頃、いつの間にか晴れてしまったのでした。それはやはり私の思いを超えたところから来たのです。
全くどうと言うことも無いような、こんな深刻なことも又無いような...
何とも不可解な中二の夏なのでした。