"ワクワクすることを選択したら幸せになれる..."
って、フレーズ今でも親しまれてるのかしら?
これは30数年前、私も一時期ハマったことがある、「バシャール」なる宇宙存在?がかかる、所謂"チャネリング"を通じてスピ界隈に広まったものです。
これについて、"そんなん、ちっとも効き目なんか無いi"という不評も多いようなのですが、これにはある重要なことが見落とされているとは思いませんか?
それは、"ワクワクしている状態"がどういうものか、ってことが分かっていないのです。
これは、何かをしないと幸せになれない、幸せとはそれをもたらすものを得ることでそうなる、といった見た目の幸福に囚われていたら絶対に分からないことでしょう。
ホントにワクワクしていたら、もう幸せは叶えられているではないか? 幸せに感じてなくて、何でそうなれるの? 極めて当たり前、自然なことではありませんか?
このことは、神仏への帰依、祈願、祈りといったことにも言えます。
本当に神に祈る、思いを向けるというのはどういうことなのか?
色々な神が居るのでしょうが、ここでは各々にとっての思いを超えた見えない存在?、最愛の御方といったもののことです。最愛の存在は思いを超えているものでしょ?
そして思いを向け、届き、つながる...見えないものとの交わり...これが本当の信仰、"神交"というものでしょう。
それで、幸せにならない、幸せでない訳が無いのですi
"幸せになりますように"と、祈りごとをする必要もありません。とにかく意識が神的なものに向かうだけ...
一生懸命神に祈ってもちっとも願いは叶わなかった、というその一生懸命さは、主我的な思い、念に絡められているのです。
自分の命の大本なのに、自分の欲求を満たすダシに使われているのです。
祈ることが願望成就だけために使われているのは、加持祈祷みたいなものと混同しているためでしょう。
昔我が国では権力者が坊主に、雨乞いや戦勝祈願をさせ、叶えられなかったら坊主は厳罰に処されたらしいです。実に末法の世そのもののようです。
宗教ほど本末転倒の様相を映し出すものはないようで、この根本的な祈りは、ずっと見失われていたのです。
その末法のような時勢、法然や親鸞らによって僅かに"本願念仏"ということで、説いていたのですが、どのくらい伝わっているのでしょうか?
"こんなに祈っているのに、人生ちっとも良くならないじゃないか、世界が平和にならないじゃないか"、って、自分自身が本当に平和、平安であることがどういうものか分からないのに、実にズレた話じゃありませんか?
これはじっつに主我的な思いの沙汰ではありません。
といって極めて主体的、実存的なことです。
根本的な幸福は、他の誰でもない、あなた自身に開かれるものだから...
だから、"こうすれば、こう祈れば幸福になれる"、とか人が言っている神じゃなく、あなたの神に思いを向け、ゆだね、つながらなければならないのです。
って、フレーズ今でも親しまれてるのかしら?
これは30数年前、私も一時期ハマったことがある、「バシャール」なる宇宙存在?がかかる、所謂"チャネリング"を通じてスピ界隈に広まったものです。
これについて、"そんなん、ちっとも効き目なんか無いi"という不評も多いようなのですが、これにはある重要なことが見落とされているとは思いませんか?
それは、"ワクワクしている状態"がどういうものか、ってことが分かっていないのです。
これは、何かをしないと幸せになれない、幸せとはそれをもたらすものを得ることでそうなる、といった見た目の幸福に囚われていたら絶対に分からないことでしょう。
ホントにワクワクしていたら、もう幸せは叶えられているではないか? 幸せに感じてなくて、何でそうなれるの? 極めて当たり前、自然なことではありませんか?
このことは、神仏への帰依、祈願、祈りといったことにも言えます。
本当に神に祈る、思いを向けるというのはどういうことなのか?
色々な神が居るのでしょうが、ここでは各々にとっての思いを超えた見えない存在?、最愛の御方といったもののことです。最愛の存在は思いを超えているものでしょ?
そして思いを向け、届き、つながる...見えないものとの交わり...これが本当の信仰、"神交"というものでしょう。
それで、幸せにならない、幸せでない訳が無いのですi
"幸せになりますように"と、祈りごとをする必要もありません。とにかく意識が神的なものに向かうだけ...
一生懸命神に祈ってもちっとも願いは叶わなかった、というその一生懸命さは、主我的な思い、念に絡められているのです。
自分の命の大本なのに、自分の欲求を満たすダシに使われているのです。
祈ることが願望成就だけために使われているのは、加持祈祷みたいなものと混同しているためでしょう。
昔我が国では権力者が坊主に、雨乞いや戦勝祈願をさせ、叶えられなかったら坊主は厳罰に処されたらしいです。実に末法の世そのもののようです。
宗教ほど本末転倒の様相を映し出すものはないようで、この根本的な祈りは、ずっと見失われていたのです。
その末法のような時勢、法然や親鸞らによって僅かに"本願念仏"ということで、説いていたのですが、どのくらい伝わっているのでしょうか?
"こんなに祈っているのに、人生ちっとも良くならないじゃないか、世界が平和にならないじゃないか"、って、自分自身が本当に平和、平安であることがどういうものか分からないのに、実にズレた話じゃありませんか?
これはじっつに主我的な思いの沙汰ではありません。
といって極めて主体的、実存的なことです。
根本的な幸福は、他の誰でもない、あなた自身に開かれるものだから...
だから、"こうすれば、こう祈れば幸福になれる"、とか人が言っている神じゃなく、あなたの神に思いを向け、ゆだね、つながらなければならないのです。