人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自然なこと、不自然なこと

2020-07-04 03:55:07 | 祈りと瞑想
"神(的なもの)は、人の思いを超えている"、とは何度も言っています。
ということは、神に思いを向けると、思いは超えられるんだ、とも。
いや、向けるんじゃなくて、自ずと向いちゃうんだ、とも。
これは自ずとそうなる、無為自然的なことを言っているんだ、とも...。
ということは、それをやることで少しも無理とか、難しいとか、苦しく、億劫になってきた、ということが無いということです。
いや、やるとか為すとかじゃなくってですねえ...(何でこんなナチュラルなこと言い表すのにメンドクサい思いしなきゃならないんだろう...)
私がこのように自然なことに赴く、ということは人為的な、メンドクサそうな、やらなきゃならないと迫られるような、苦しくなるような修行、メソッドとかには赴かなかった、ということです。
ある修行をしていて、それがとても難しいのに、ともかくも周りがそう仕向けるのか、やり続けているうちに苦しくなってしまった、という話をよく聞きます。
例えば、五井先生が教えていた「消えてゆく姿」というある種の観行とか...私などは何がどう消えてゆくのか、テンデに分からないので手につかず、そのうちメンドクサくなって離れてしまいました。
それとセットになっている「祈りの行」にしても、"そうしないと自分も世界も救われない。だから数多くやらなきゃならない"、という思いに囚われ出すと、どっかで無理が生じてシンドクなってくると思います。
不自然な思いして、苦しくなることを何でやり続けなければならないのでしょうか? その行を否定したり、やらないのは業想念だからなのか?
いいや、思いに囚われているから業想念なのでしょうi
何故、かくも思いに囚われてしまうのでしょうか? それは、その祈りにしろ、行、あるいは又信仰が神(的なもの)と切り離されるからでしょう。悟りのことも世界平和のことも...
しかし、本来五井先生が教えていたことは、無理なく、囚われ、苦しむことなく行じられる道だったと思います。
それは、"思いを神様の中に入れちゃうんですよi"、という教えの中に端的に表されているでしょう。
私にはハッキリ示されているのです。そうすると思いから離れられる、ということが...
それは、"思いは消えてゆく"と、こっちが懸命に思おうとすることじゃなんです。だからシンドクなるのにi
ところが、思おうとしちゃんだから、人間はよっぽど、業が深いのか、そう思う私がそうなのか?
私は昔から、神にゆだねなければどうにもならないということが、私の始末に終えない、思いのガンジガラメ状態から、イヤというほど思い知らされていたのです。
そういう不自然な思いをサンザンしてきたので、その自然な方にスッと意識が向けられるのでしょう。
それはこっちの思いや意識をどうとかすることじゃなくて、神的なハタラキにあってなされることなのです。
私はこういうことを独り善がりみたいですが、何かのメソッドのようには伝えられません。そうしたらワザとらしい、人為的なものになっちゃうでしょ? それに、人の思いでアカが着いたら元もコも無いし...伝えられないし、伝える気も無いです。
ただ、あらゆる思いをうっちゃって、純一にあなたの"神を愛し、受け入れる"、ということしか言えません。
あら、伝えちゃっているのかも...。
コメント
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