人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無と苦しみ

2020-09-06 10:58:51 | 求道、探究
最近のお手軽なものではあまり聞かれないようですが、宗教やスピではしばしば、"至福に与るには苦しい道を通らなければならない..."などと説かれてきました。
私自身もそうだったように、表層意識では自覚されていなくても、深いところでそういうことが刷り込まれている人も多いのではないでしょうか?
これには、クリスチャンに多く見られるように、罪の意識というものが、よりいっそう拍車をかけてしまうもので、救われる前に神が苦しみを与えているようにどっかで感じてしまうようです。
又、"うんと苦しまないと神と一つになれない"、と難行苦行に走ってしまうこともそうした意識の表れなのでしょう。
こうした意識の根底には、"神につながるには思いを、肉体感覚を超えなければならないi"、つまり"無にならなければならないi"ということと結び付いているように思われます。
理屈で考えてみても、新しい水に与るには、器を空っぽにしないと注ぐことは出来ないでしょう。又神とつながることが最善のことであれば、それまでのことは次善にして、場所を明け渡さなければならないでしょう。
だから、思われたままの自分が覚醒するとか悟るとかいうことは、この理が全く分かっていないということなのです。
実際に私は、初めて神に捉えられた時、身体の機能も思考機能も失うというプロセスを通らされたのです。
もう、その苦しみたるや、想像を絶するほど...想像したものではなかったですよi
これは、そもそも思考も感覚もマヒしていたから、そのように感じなかったのかもしれません。いや、それ以上に愛、平安、リアリティ感(これは感じられたi)が苦しみを圧倒していたということなのでしょう。
だから、無にならなければならないのですi...って、"出来るかってんだi"
自分の力で思考、肉体感覚から離れることは想像を絶する、気も狂わんばかりの苦しみを伴うことは容易に想像出来ます。やろうとする人間の気がしれません。
そうでなくても、私も経験がありますが、望まなくても意識を失いそうになって、混乱しそうになることもあります。
それでは、どうして苦しみを通らずに思考、身体機能から離れられるか、というと神の、見えない導きに依っているためです。
神にゆだねる、ということがあるだけなのですi
誤解の無いように言いますが、それによって、思考や欲望がずっと消滅したり、無の境地や悟りに至るかどうかは別の話です。最善のものだけを残して次善以下のものが消える訳でもありません。
ただ、それによって神的なものにつながる回路のようなものが開かれるということなのです。
こう考えてみると、"目覚める"と一口に言うけれど、"神に目覚めること"の他には無いのかもしれません。
ここでは、目覚める上でのスポット的な、具体的な苦しみについて述べておりますが、もっと広い、人生にまつわる苦しみの意味については簡単に語ることは出来ないでしょう。
ただ、私には前者は勿論、後者についても神がそれを課しているようには感じられません。
苦しみは思考、肉体を持った我々に本来的に付きまとっているものなのでしょう。
それは神と離れてしまった宿命なのでしょう。
コメント
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