人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

それぞれの波長

2020-09-13 10:18:40 | 求道、探究
昭和46年、中三の秋、私は初めてロック.コンサートへ行きました。
そのアーティストは、当時おそらくロック界でもっとも注目を集めていたであろう、「レッド.ツエッペリンi」
会場の日本武道館も初めてでした。
"広いi、しかし、それを埋めつくす人間の塊がうじゃうじゃi(これがコロナ禍だったらどういうことになるだろうか?)、帰りたいi...やたらと待たされたがいよいよ始まったi...デカイ音量、眩しいライトi...帰りたいi...これはグッド.タイムスなのかバッド.タイムスなのか分からなくなってきた..."
数人のクラスのロック.フリークたち(私もその端くれだったのですが、"コミュニケーション.ブレークダウン"を抱えていたのか、その仲間には加わっていなかったのです)と行ったのですが、他の人らは、立ち上がって手拍子したりしてノッていた中で、私は何だか、立ち上がらなければいけないような気がして、お不動さんのように立ってただけです。
"ノル"という感覚がどうもよく分からなかったのです。
というより、元々私は、何かの祭りとか、こういう全体と一つになってしまうような環境に、容易に溶け込むことがほとんど無いということなのです。
ともあれ、そのことを機に、私の当時の自分にフィットする音楽を模索する中で、"ハード.ロック"路線は挫折せざるを得なかったのです。
ずっと後年、全く趣は異なりますが、集団的な熱狂を伴う、キリスト教の聖霊降臨を喚起する集会においても、ある種の感応は認められましたが、一度もその人知を超えたエネルギーの渦に巻き込まれることはありませんでした。
私は、常に理性がガンバってる人間なんでしょうか? こういう人間は救われないのでしょうか?
先の例といい、随分肩身の狭い思いをさせられたものです。
それで、よくもまあ、"意識を向けると、現臨が臨むと、ぱっと思考から離れられる..."などと日頃書いてるものですが、それもホントなんだから仕方ありません。
こういうものは、"ワイワイ、ワッショイ"というノリでは来ないのです。"じんじん"、"そくそく"と、静かーな感じで、染み渡ってくるように来るのです。
熱狂的にならない、静かに集団で祈るキリスト教の集会では、しばしばそういう感じになりました。
これは良い悪いでなくて、人にはそれぞれ固有の振動性があり、その波長に合う、合わないという問題があるということなのです。
音楽の嗜好のことなら、元より感覚的なこのことなので分かりやすいですが、宗教など精神的な道では、その信条的な面ばかり意識が行ってしまい、このより身体的波長面のことが盲点になりやすいようです。
一人一人の個性というものは、頭で考えている以前に身体面で示されているのでしょう。
このことを弁え、自覚すれば、マイノリティだろうと、何だろうと大手を振って歩けるというものだ...
何ーんて、そうしないで万事控えめなのが、私のマイナーな個性なのでした。

コメント
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