人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りは方法無き道

2020-09-07 11:44:38 | 祈りと瞑想
「私たちは、ものを祈り求めるのではなく、その与え手を祈り求めなければなりません。命ではなく、命の与え手を求めなければならないのです」(サンダー.シング)

これを書いている今、経験したことのない強い勢力であるという台風10号が九州地方を襲っていますが、やはりこういう際には、"大きな被害にあわれませんように..."、と誰しもが祈らされるものですね。
一体、何人の人がその問題に直面している、いないに関わらず、祈りを通して平安に導かれるのか、どうかは分かりませんが...
不幸災難から救われようと、又願いが叶えられようと祈るのも自然なことでしょうが、愛、平安というものは、私は何度も経験しているように、実に神的なものと共にある、ということにあるのです。
だから、何か事が起こった時には祈るが、普段は忘れられているのがフツーなのですが、起こってしまったら手を合わせてしまう、というのが、おそらく世界人類に共通した自然な心情の表れなのでしょう。心のどっかにはやはり神的なものが意識されているのでしょう。
私がいつも書いていることというのは、ある方法に則り、心や行いを整えたり、変えようとしたり、鍛練を重ねて行くようなこと(多分、それはそういうことで、幸福に与らんとするのでしょうが)でなしに、その幸福の与え手を頂く...それによって心が自ずと整えられたり、変えられたりする、というようなことなのです。
神に臨んで頂く、神の息吹きに通って頂く...もう、そういうこと自体が幸福に与ることと言ってもいいのです。
して、その方法は...やはり祈りということになるのです。(広い意味では瞑想とつながるものでしょう。しかし、何か事が起こった時、フツーは瞑想しようとはしないし、そう呼ばないでしょう)
これもある意味で方法かもしれませんが、こちら側でこうしよう、ああしようなんてのはありません。方法は即手放しになってしまうのですから...これは意識を神に向ける、向いちゃうということと同じなのです。祈っているうちに、あるいは祈るより先に祈らされている感じがしてきます。
これが、思う、行う私じゃなくて、そう為さしめる、その私あらしめるものがお在す、ということなのです。
インドの神秘家サンダー.シングは、祈りは呼吸と同じだとも言っていますが、それは命そのもの、命の与え手を頂く、ということなのだから、実に頷けることです。
このことに意識的になれば、命のみ親とつながることになるのも、自明なことではありませんか?
呼吸にも等しいみ親との交わりに、特定の祈りの形や文句などに囚われるなんてどうかしています。囚われることほど祈りの在り方からズレたことはありません。
自分の思い、祈りでなしに、神的なものに意識がつながることが肝心なのです。
それは方法無き、最愛のものに自己を明け渡す道なのです。
コメント
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