人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

最愛なるものと思いを超えたもの

2020-09-17 12:27:18 | 
私はやたらと"神"という言葉を使うようですが、いつも読まれている人にはお分かりと思いますが、あまり宗教というものにとらわれる必要は無いのです。
これは"現臨"、"見えざる導師"と言ったり、いわく言い難いものを分かりやすく言っているまでです。要するに"神的なもの"なのです。
もう一つには、ある意味"隠れ蓑"のように言い表している部分もあります。
どういう訳かと言うと、"自分が..."という線を表に出さないようにするということです。
というのも、私は元々自意識が強く、すぐ自我肥大に陥り易いことを自覚しているので、なるべく、そういうクセは、神の名を借りて隠してしまおうと、まあ、小賢しい意図からでもあったのですが...
ところが...いつの間にか、そんな表層の思いを超えて、本当にその神的なものの方が表に顕わになるにつれて、このチッポケな自分は、段々と後退して行く感じになってしまったではありませんかi
これは、"神的なものに意識を向ける"ことでそうなったということ、もっと的確に言えば、いつの間にか、向いちゃったってことです。
神は、本当に、ホントーに思いを超えている...こちらの思惑でしたことが、思いを超えた方に取られて(化されて)しまうのです。
もう、"私は段々自意識は無くなり、無の境地に近づいて来ましたよ~"とか、エゴをくすぐることを思わなくてよくなったのです。(といって、こういう微妙な表現で、自意識は消えて無いということが分かるでしょう)
(私が)霊的に進化したんじゃありませんi 神が表に顕わになったのですi
(私が)真我に目覚めてきたんじゃありません。現臨にある時、思われた自分から離れた、真の自己が写し出されるのですi 私は私で無いほど私自身になるのですi
もはや、私が進化しようと、後退しようと、無になろうと、強欲だろうとどっちでもよいi
こういうことは、私自らが自意識を引っ込めよう、欲望を抑えよう、心持ちを変えようと、いくら努力しても、その気根の無さを思い知らされるばかりで、少しもそうなった試しなど無いことだったのです。
これが、チョイと意識を向けるだけで...否、神はこちらの意識が向かわざるを得ないものなのでしょう。
それは最愛のものだから...どうしたってそっちに意識が赴き、他には向けられません。
"自ずと意識がある中心に収斂される"、というのはこういうことなのです。
そして、それが思いが超えられる、ということなのです。
神...このいわく言い難いものは、(言葉に尽くせぬものなれど)"最愛なるものと思いを超えたもの"の代名詞たる所以なのです。

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