人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内なる律法

2020-09-09 12:28:08 | 雑感
毎日、動物や植物、虫などの動画、画像を観て楽しんでおりますが、時にその可愛らしさに和まされると同時に、昔の悪行の数々のことが思い出され、自責の念で胸が締め付けられそうになることがあります。
蝶々を生きたまま天ぷらにしたこともあった...バッタの羽をもいで跳べるかどうか見たりした...傘で道端に咲いている花を、チャンバラみたいに花びらだけをバサッ、と切り捨てたりもした...
よくも、あんな酷いことをしたものだと我ながら思います。(と言いながら、今年もゴキブリ、ハエ、蚊などの害虫を何匹殺したか分かりませんけど...)
私は二重人格の自覚があり、ああいう悪魔性は多分、今でもどっかに巣くっているのでしょうけど、かつてはこういう気持ちにさせられたことはほとんど無かったのです。
この胸が締め付けられる思いは、自責、後悔からだけから来るものではありません。
何とも言えない、じわじわーっと迫る哀(愛)感のようなもの、そのように具体的に感じられるものがあるのです。これは数年前、夢の中で弾みとはいえ、人を殺めてしまった(!)時にも感じられたものです。
そして自責の思いと、その具体的に感じられる愛感とは一つのものだということが分かるのです。
事の善悪ということなら、私はそういう無益な殺生が悪いことだとは、頭では少しは分かっていたつもりでした。しかし、たかが虫や草花のことなど、どっからも罰せられないではないか?...悪いことなのか?
善悪など国や時代によっても変わることだし、スピの先生だって"善悪は本来無い"、と言っているではないか?
しかし、この胸に心臓の鼓動のようにも、血肉に訴えかけるようにも迫る感覚は、社会生活を律する法、モラル、善悪の抽象的観念によってはけっして捉えられないものなのです。
外側の律法にいくら照らしてもこの感覚は分かりません。しかし、この内側からの律法に照らして、我々はそのハートから迫り来るものに堪えられるだろうか?
この感覚こそは、人々が善悪について感じているものの根底にあるものでしょう。
そして、このものに根差したものでない、外的な律法のみでは、我々は主体的に自らを律することは出来ず、それはもう破綻しているように感じます。
このことは、益々荒廃した様相を呈した現代社会が物語っている通りでしょう。
我々の多くはその内なる律法を久しく失ってしまったままなのです。
一つ言えることは、我々の生活を律する法は、あまりにも"生命の尊厳"に根差したものとは言い難いということです。これが端的にそれを蔑ろにしている要因になっているのでしょう。
具体的な愛の感覚は、具体的な生命に接することなどによってある程度養われるものでしょう。よく言われるように幼い時から自然に、動植物に具体的に接して親しむことは実に大切なことだと思います。
私が実感していることは、それは確かに私に本源的に息づいていたものだけれど、久しく失っていたものだということです。決して無くなってしまったものではない...ハートの声に聞くべしi
こういうことは、依然として問題児、いやもう、手遅れの問題オヤジの私がエラそうに言えることじゃないのですが...
外側の律法は益々廃れて行くように感じる一方、内なる律法が復活する兆しも仄かに表れて来ているようにも感じています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする