「十字架と聖霊は切り離すことが出来ない」
小池辰雄先生は、終生このことを叫び続けておられました。
しかし、何度か触れているように、私はこれに躓いたのでした。
聖霊の方はともかく、十字架というのは、主流のキリスト教教義の根幹を成しているもので、イエスに倣って"苦難を受け入れることー受苦"や贖罪信仰と結びつけられて来たのです。
私はとにかく、ただ所与の教えを信じればいいという、観念信仰は受け入れられなかったのです。
だから"聖霊を受ける"ということに惹かれたのですが、これが一体どう結び付くのか? まあ、今から思えばこのこと自体、観念に囚われていたということなのですが...
それで、先生はこれを"体受しろ、全存在で受け取れi"、と言うんですから、観念の事態でないことは伝わるのです。
しかし、昭和58年夏、私にはあの爆発的な目覚めに与った時、先生がこのことについて、激しく告白していたことに通うようなことを示されていたのです。
でも、そのことを本当に、意識的に理解するようになったのは、ずっと後年、15年くらい経ってから...そう、じんじんと意識を向ければ、"ぱっ"となることを身に覚えるようになってから..."私自らは悟りは開けない"、ということを示されてからです。
私の理解によれば、これは自我性、主我性(先生によれば、これが人間の根本的な罪と関わるとのこと)の突破(これで、それが無くなる訳ではない)、思いを超えた世界が開かれるということに他なりません。
思えば、私は物心付いてから、どんなにこの自我性、思念の絡みつきに苦しめられたことだろう...これが砕かれ、解かれる道が開かれたi... これを福音と言わずして何であろう...。
もう一つ、これは私はあまり意識されることは無かったですが、十字架を受けることは、苦難を受けることなのでしょうか? 私はそういうものを感じたことがほとんど無かったので、意識され無かったという訳なのですが...
受苦の道の裏には、苦難を通らなければ、至福に与れないという思いがあるようです。苦行に取り組むという意味合いもここにあるのでしょう。
これには罪を贖わなければならない、という意識も働くようです。
そうでなければ、矛盾してるようですが、"罪は贖われた"、と信じ込むのでしょう。
しかし、そのように思い描くことばかりが、人生の全てじゃありません。そこには"裏側"の消息が隠されていたのです。
私に示され、開かれた世界において、思考機能が後退した中で、"死"というものが過りましたが、そこに恐れも苦しみもありませんでした。
これは、"見えない導き、聖霊、現臨にあって"、のことであるのは言うまでもありません。
もし、そういうものの無い状態にあったなら...おそらくは肉体的にも、精神的にも耐え難い苦難を背負い込むことになっていた、であろうことは想像に難くありません。
これは、聖霊、現臨の無化されるハタラキに依っていたのです。
ダンテス.ダイジの師で、老子や禅の研究家、伊福部隆彦先生は、一般に「無為にして為す」と読む、老子の言葉を「無為のハタラキ」と読んで新たな解釈を展開したのは、実に画期的なものでした。
それはそうだろう。そういうものなしに何も為し得ないし、何も起こらないだろう。
聖霊がハタラくところ、無化が行われる...
実に、十字架と聖霊は不可離というか、全く一つに、具体的に体受されるものではないか?
何の宗教を奉じていようと、ここに導かざるを得ないではないか?
小池先生のこの信仰告白こそは、画期的なものであったと、少なくとも自我の塊みたいだった、私には深くそう思えてなりませんi
しかし、誰がそのことを知るであろうi 先生には失礼ながら、ここで私が取り上げるのが相応しいのかもしれません。
惜しむらくは、その言い回しには、どうしても所謂"キリスト教"の域を越えないものが感じられます。それが万人に向けられていたにも関わらず...
私がここで書いていることも、全く日の当たらないところで、万人に向けていることなので、やっぱり、そうなのかな?と思う次第です。
小池辰雄先生は、終生このことを叫び続けておられました。
しかし、何度か触れているように、私はこれに躓いたのでした。
聖霊の方はともかく、十字架というのは、主流のキリスト教教義の根幹を成しているもので、イエスに倣って"苦難を受け入れることー受苦"や贖罪信仰と結びつけられて来たのです。
私はとにかく、ただ所与の教えを信じればいいという、観念信仰は受け入れられなかったのです。
だから"聖霊を受ける"ということに惹かれたのですが、これが一体どう結び付くのか? まあ、今から思えばこのこと自体、観念に囚われていたということなのですが...
それで、先生はこれを"体受しろ、全存在で受け取れi"、と言うんですから、観念の事態でないことは伝わるのです。
しかし、昭和58年夏、私にはあの爆発的な目覚めに与った時、先生がこのことについて、激しく告白していたことに通うようなことを示されていたのです。
でも、そのことを本当に、意識的に理解するようになったのは、ずっと後年、15年くらい経ってから...そう、じんじんと意識を向ければ、"ぱっ"となることを身に覚えるようになってから..."私自らは悟りは開けない"、ということを示されてからです。
私の理解によれば、これは自我性、主我性(先生によれば、これが人間の根本的な罪と関わるとのこと)の突破(これで、それが無くなる訳ではない)、思いを超えた世界が開かれるということに他なりません。
思えば、私は物心付いてから、どんなにこの自我性、思念の絡みつきに苦しめられたことだろう...これが砕かれ、解かれる道が開かれたi... これを福音と言わずして何であろう...。
もう一つ、これは私はあまり意識されることは無かったですが、十字架を受けることは、苦難を受けることなのでしょうか? 私はそういうものを感じたことがほとんど無かったので、意識され無かったという訳なのですが...
受苦の道の裏には、苦難を通らなければ、至福に与れないという思いがあるようです。苦行に取り組むという意味合いもここにあるのでしょう。
これには罪を贖わなければならない、という意識も働くようです。
そうでなければ、矛盾してるようですが、"罪は贖われた"、と信じ込むのでしょう。
しかし、そのように思い描くことばかりが、人生の全てじゃありません。そこには"裏側"の消息が隠されていたのです。
私に示され、開かれた世界において、思考機能が後退した中で、"死"というものが過りましたが、そこに恐れも苦しみもありませんでした。
これは、"見えない導き、聖霊、現臨にあって"、のことであるのは言うまでもありません。
もし、そういうものの無い状態にあったなら...おそらくは肉体的にも、精神的にも耐え難い苦難を背負い込むことになっていた、であろうことは想像に難くありません。
これは、聖霊、現臨の無化されるハタラキに依っていたのです。
ダンテス.ダイジの師で、老子や禅の研究家、伊福部隆彦先生は、一般に「無為にして為す」と読む、老子の言葉を「無為のハタラキ」と読んで新たな解釈を展開したのは、実に画期的なものでした。
それはそうだろう。そういうものなしに何も為し得ないし、何も起こらないだろう。
聖霊がハタラくところ、無化が行われる...
実に、十字架と聖霊は不可離というか、全く一つに、具体的に体受されるものではないか?
何の宗教を奉じていようと、ここに導かざるを得ないではないか?
小池先生のこの信仰告白こそは、画期的なものであったと、少なくとも自我の塊みたいだった、私には深くそう思えてなりませんi
しかし、誰がそのことを知るであろうi 先生には失礼ながら、ここで私が取り上げるのが相応しいのかもしれません。
惜しむらくは、その言い回しには、どうしても所謂"キリスト教"の域を越えないものが感じられます。それが万人に向けられていたにも関わらず...
私がここで書いていることも、全く日の当たらないところで、万人に向けていることなので、やっぱり、そうなのかな?と思う次第です。