人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真我探求の落とし穴

2020-10-12 11:45:09 | スピリチュアル?

"本当の自分探し"などと言われ出して久しいですが、一体何人の人が見つけられたのか知る由もありません。
スピ界隈では、真我の探求、実現ということがある種のステイタスのようになっています。
この中で何が真我で、何が違うのか、"それは自我だ、エゴだi"、なんて神経症みたいに躍起になったりしてるのを見るにつけ、私はそこに真我というものを感じることは出来ないのです。
といって、私は真我が何かというものは分からないのですが... これは、少なくとも私にはナチュラルに、"自分はそういうものに触れて、あまり居心地よく感じられない、そういう方に深入りしたくない"、というようなニュアンスのことです。
何でかって言うと、自分というものが分裂しそうになる、そのためにかえって自分を見失いそうになるからです...
一コの自分を真我、自我、偽我、アストラル体、コーザル体とかに分けて、真我以外のものは、幻想として否定されたりする..."真我のみの自分になるのが、ノンデュアリティだ"、なんつったって分離も甚だしいではないか?
私は、これには"真我は高次のもの、自我は低次のもの、より高き境地に到達するには真我に目覚めねばならない"という、"意識高い系"(?)の心根が、そうした傾向を生み出すのではないか、と思います。
そういうのは、イチイチ自分を分けて、ほじくり返したりせんでも、"エゴがそれを喜び、仕向けている"というのが感じられないでしょうか? 自然に。
この自然に感じれるか、どうかというのが極めて重要なポイントなのです。 自然というのは、ありのまま、そのまま...真も偽も、良いも悪いも、上も下もありません。
そう、分裂してないということ...そこでは、少なくとも神経症のようになってるよりは、ずっと自分自身で居られるという訳です。
こういうことは、勿論私自身"高い方"を向いていたから分かるのですよ。("かつては..."って言い方はしません。"ヤツ"の企みは知ってますから?)
そういう風になっている時、どうしても"自分が居るところ、赴くところ"というものを見い出せなかったのです。
そして、"昔から身に覚えていたものに意識が向けられた...現存在らしむるものが臨んできた"、という次第です。
真我というものはさておき、この現臨にある、ということが"私は現存している"、という状態につながるのです。
それは、ありのままの自分を映し出す...どんなにダメだろうと、悪かろうと、低劣だろうと...置かれた現実の自分を映し出す...さらにその奥に隠れた、別なるリアルな自分を映し出すのです。
かかる自分とは、分離の無い、トータルな自分のことです。
おそらく、このことをおいて真我の実現などあり得ないでしょう。
高い方にばかり囚われた人間は、低い方の現実に意識が向けられず、理想として思い描かれた、真我らしきものの幻想を追い求めているのではないでしょうか?
このことは、"思われた自分自らは、本当の自分は見つけられない"、という現実に気付けないところから来るのでしょう。
そして、その気付きから思いを超えたものが開かれる...かもしれない。

コメント
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