私が個人的にチョイと知っているあるブロガーは、人が高次のエネルギーとつながる(悟るということか?)には、チャクラを開かなければならないと、又さらにその上、霊的なチャクラを開かなければ、完全には開かないのだ、とか書いていました。
そして、それに与るには五井先生が提唱された道に従うことなのだそうです。
これは、すべて自分自身で確認されたことでも、自身において開かれたことでもなく、他人の言説に安易に迎合し、信じ込んだことを言っているのです。
いつの日にか来るのであろう、完全覚醒の境地を夢想して...その日は永久に来ないかもしれないのに...
五井先生の著書は何冊も読んでいますが、勿論そんな話などに接したことがありません。
人が神的なものにつながるにせよ、悟りを得るにせよ、何故かくも、他人の言葉に踊らされて、ねばならないことを背負わなければならないのでしょうか?
悟るとか覚醒するとかは別として、心底頷ける、平安、幸福といったものに与るということは、他人事、世の中の事でなく、自分自身に開かれ、目の当たりにし、それを実感することをおいてありません。
言い換えれば、このことを欠いて精神の覚醒、いや真の幸福なんてものはあろうはずがないのです。
先の話で私は大分前からチャクラのことも、あるいはクンダリーニの上昇のことも知識としては知っていました。
又、体感されたことで、そういうものがあるらしいことも知らされていました。
だけど、それらは"自分自身の問題"として意識されたことは一度もありません。
これを問題にするのは、そういう条件の元に歩んでいる、一部のヨガや瞑想の行者しか居ないでしょう。
イエスやシャカや老子がそういうことに言及しているでしょうか?
自力修行の道に縁の無い私は、根本的にそういうことに赴くことが無かったのです。
自ずと向かわされるもの、見えざる導きが開かれていたのです。
これは私自身に、そう共感されるものが芽生えたと言っていいでしょう。
これは、契機となったいくつかの縁はあったにせよ、他所からもたらされるのではありません。だから"自ずと"なのです。
そういう縁との関わりは、追従に依ったのではありません。多くは共感に依ったのです。
これはごっちゃにされやすいことですが、他所からと自ずからとの大きな違いがあるのです。
何故、人は容易く他人の言葉に踊らされ、支配されてしまうのでしょう。
何故、内なる共感に従おうとしないで、真実はどうだか分からないような、メンドクサい問題を持ち込もうとするのでしょう。
それは、自分自身に意識が向けられない、意識が開かれない、つまりは自分自身を愛することが出来ないことにあるのでしょう。
五井先生は、誰よりもそういうことを口が酸っぱくなるほど言っていたと思うのですが...五井先生に盲信しても、自分自身は信じられないのでしょう。
まあ、どんな遠回りの、迷った道を歩もうと人の自由ですが...かつて縁のあった人間が、迷ったようなことを拡散しているのを知って、黙っておれなくなる性分なので、つい...
そして、それに与るには五井先生が提唱された道に従うことなのだそうです。
これは、すべて自分自身で確認されたことでも、自身において開かれたことでもなく、他人の言説に安易に迎合し、信じ込んだことを言っているのです。
いつの日にか来るのであろう、完全覚醒の境地を夢想して...その日は永久に来ないかもしれないのに...
五井先生の著書は何冊も読んでいますが、勿論そんな話などに接したことがありません。
人が神的なものにつながるにせよ、悟りを得るにせよ、何故かくも、他人の言葉に踊らされて、ねばならないことを背負わなければならないのでしょうか?
悟るとか覚醒するとかは別として、心底頷ける、平安、幸福といったものに与るということは、他人事、世の中の事でなく、自分自身に開かれ、目の当たりにし、それを実感することをおいてありません。
言い換えれば、このことを欠いて精神の覚醒、いや真の幸福なんてものはあろうはずがないのです。
先の話で私は大分前からチャクラのことも、あるいはクンダリーニの上昇のことも知識としては知っていました。
又、体感されたことで、そういうものがあるらしいことも知らされていました。
だけど、それらは"自分自身の問題"として意識されたことは一度もありません。
これを問題にするのは、そういう条件の元に歩んでいる、一部のヨガや瞑想の行者しか居ないでしょう。
イエスやシャカや老子がそういうことに言及しているでしょうか?
自力修行の道に縁の無い私は、根本的にそういうことに赴くことが無かったのです。
自ずと向かわされるもの、見えざる導きが開かれていたのです。
これは私自身に、そう共感されるものが芽生えたと言っていいでしょう。
これは、契機となったいくつかの縁はあったにせよ、他所からもたらされるのではありません。だから"自ずと"なのです。
そういう縁との関わりは、追従に依ったのではありません。多くは共感に依ったのです。
これはごっちゃにされやすいことですが、他所からと自ずからとの大きな違いがあるのです。
何故、人は容易く他人の言葉に踊らされ、支配されてしまうのでしょう。
何故、内なる共感に従おうとしないで、真実はどうだか分からないような、メンドクサい問題を持ち込もうとするのでしょう。
それは、自分自身に意識が向けられない、意識が開かれない、つまりは自分自身を愛することが出来ないことにあるのでしょう。
五井先生は、誰よりもそういうことを口が酸っぱくなるほど言っていたと思うのですが...五井先生に盲信しても、自分自身は信じられないのでしょう。
まあ、どんな遠回りの、迷った道を歩もうと人の自由ですが...かつて縁のあった人間が、迷ったようなことを拡散しているのを知って、黙っておれなくなる性分なので、つい...