人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神と罪

2020-10-23 12:19:46 | 宗教
世の中宗教離れになって久しいし、新手のスピでも神信仰については説かれなくなってきたようです。
でも、昔も今もある種の神への信仰は根強いものがあります。
それは人に罪の意識を植え付ける神のことです。
それはどっかで信じられている神だろうと、個々の良心といったものだろうと、社会通念だろうとどうでもよいことです。
我々は、常に何かから罪意識を吹き込まれてきた、ということに変わりは無いのです。
そして、その傾向は近年より強固に、より暴力的になってきたと言えるでしょう。
つまり、罪悪感を背負い込むことに耐えきれなくなって、はけ口を失い、我々の外部へと暴発してきているのではないか、ということです。
この前には、我々の道徳観念、理性的判断ではもはや太刀打ち出来ないでしょう。
我々は自らの思念により、自らを精神的に袋小路に追いやり、その逆流してくる業のツケを抱え込むハメになってしまったのです。
この罪深い、呪われた運命を一体どこにぶつけたらいいのかi
そして、そのもっとも罪深い所業と言えば、その罪意識を駆り立ててくるものの先を"神"に帰した、ということではないでしょうか?
それは、我々からその救いの道を永遠に絶ってしまう、ということに等しいのではないでしょうか? だから罪深いというのです。
我々は宗教者だろうと、無神論者だろうと神のことは全く分かっていなかった、ということを知るべきなのです。
人が語り、信じている神を知ったつもりでいただけなのです。それは実質、神との関わりを絶つことにつながる...これが罪意識の淵源であろう。
熱心な宗教信者ほど罪意識の奴隷だということは、何ら不思議なことじゃありません。
そして、実際には聞くことが出来ない神の仮借なき言葉に、その被告者的な思念を投影させたのでしょう。
しかし、このどこにもぶつけることの出来ない思いも、ただ一つ神にはぶつけられます。
神にぶつかれば、思いは超えられるのだから....
神が何であるかは勿論分かりません。しかし、私には常に声なき声で、"お前はどこに居る、私はここに居るよi"、と呼び求めているのが聞こえて止まないのですi
神を自らの思いで勝手に遠く、近づき難いものにしてしまったが、神はその声なき声のあるところにどこでも居られる...これは我が神だけのことだけなのでしょうか?
他人が、世の中が神に擬して語っていることなどもう通用しません。
神に向き合うことは、罪に苛まれる故にそんなに恐ろしいことでしょうか?
神の本当のみ心など聞いたことがないのに...
それらしきものを聞いたが最後、もう...絶句...(易々と言えるかi)
聞く気の無い人間には、どうしたって分かりません。
耳ある人間には、神の方が沈黙の声で語ってくれる...かもしれない...。




コメント
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