人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛の魔法

2020-10-02 12:06:05 | 
こないだ道端で蝶々が花に留まっているのをしばらく見てました。この頃の蝶々は春夏と比べて元気が無く、じっとしたままです。
顔をよく見ると目がデカく、クリクリしてて可愛いですね。命が儚いと思うと余計に...
数年前まで私は、蝶々が飛んでいるのを見ても、"お、蝶々が飛んでらあ..."ぐらいにしか感じられませんでした。
もっと昔だったら、棒か何かで座頭市よろしく、"居合い斬り"を試したりしていました。あの時はきっと"目が見えてなかった"んだと思います。
普段、何気なく見ているものに、あるいは"見ていること"に、少し自分自身に意識を向けていると、いつの間にか見ているものに愛が感じられてきたりします。
これは自分自身を愛している、ということがミソなのですが、見ている世界が違ったようになります。まるで魔法にかかったように...
言うまでもなく、愛を感じているのは自分なのです。自分が居なければ可愛い蝶々は存在してない、と言ってもいいのです。
多くの人は愛というと、その対象のみから来ると感じているようです。
しかし、愛とは関係性から生まれるものです。ある対象に愛を感じていることは、本当は自分自身にもそれが感じられる、ということでしょう。
これは本当に人生の盲点と言えることです。
自分を愛すること...これこそ人生で知るべきもっとも大切なことではないでしょうか?
然るに、何故それはかくも見えないことなのか?...それは自分自身に息づく本来的な愛は対象化することが出来ないからでしょう。
だから、それを自己の外に投影するのでしょう。(このことは創世神話で、神が自己の姿に似せて人間を造ったことと関係しているのでしょうか?)
そして、対象化された愛は失われるもの...失いたくないという、所有したいという思いが"愛憎"などとなって悲劇的なことが生まれる...それが又、自分自身の愛の発露を閉ざしてしまうことにつながる...もう、考えるだけでやるせなくなります。
どうして、愛を巡る幸福な消息が、かくも悲劇的な事態へと転ぜられてしまうのでしょうか?
神がそうさせているのか?...何という茶番劇だろう...そんなのは悲劇なんてもんじゃないi
おそらくは...神のことが分からない、見えないということが悲劇なのでしょう。
そして、それは自分自身のことが分からない、見えないということと等しいことでしょう。
しかし、私にはこの悲劇な運命の結末には、愛の魔法が働くように感じられます。
私は到底、自分自身を愛することが出来ない人間だったのです。
しかし、神に意識が向かわされることで、この魔法にかかってしまいました。
そこには、対象化されない、分離されない愛がある...
自分からは何も開かれなくとも、思いを超えた、思いがけないところー神の愛から開かれる...かもしれない...。



コメント
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