"意識を向ける...いや、向いちゃう"
と...こう、いつも微妙な言い回しをいつもしている訳ですが、これはもう、私が書いていることのほとんどがこういうことになってしまうのです。
自動詞で書いているものが他動詞に転化してしまう...これは、表層的な思考の領域と、その奥に隠れた純粋意識というべき領域との関係を言い表しているに他ならないのです。
意識をある一点に集中する~自ずと意識が収斂されてくる...
自分自身を見つめてみる~自己観察とされるものが、自己の方が観察されるもの、照明が当てられるものに取って代えられる...
こういう風に書けば分かりやすいと思うのですが、これは私の場合、能動的に意念を働かせて、あることに取り組んでいけば、そのうち他動的に、無為的な方に転化して行く、ということを言っている訳ではありません。
これは、スイッチを押すと電気が付くというようなことよりも、もっと即性をもった転化の様態のことを言っているのです。(といって、全く受動的、何もしない、懐手のままでいい、という訳でも無いから...要するに微妙なんです)
あえて、能動的な部分を働かす、と言えるのは...ただ、そのことを"意識する"、というだけでしょうか...(いや、そのことすら"意識させられちゃった"部分もあるくらいです)
もう、それだけで自動的に意識のそのような動きが始まるのです。
そう、意識が動き、流れ出すのです。これは、言うまでもないことですが、主我的な私の意のままにコントロールすることとは全く違います。
むしろ、その逆で主我的な思いは後退し、その意識の動きに従う、というか化されてゆくのです。
あることで迷っていて、例えば精神的な道で、Aという教えとBという教えがあり、どちらを選択するか、という場合、あれこれ考えるのをやめて"あれ"を意識してみる...するとどっちかに意識が動き、集まってきたりする...して、自ずとそっちに赴く...
こういう風なことを、"意識を当ててみる"、などと言う向きもあるのですが、先の如く、"当てられる、当たってくる"という方がピッタリするのです。
これは、"見えない導き"というものの一端なのですが、意識が集まるところに愛、平安、リアリティがある、と言ってもいいのです。
"あれ"というのは、その...何だろう? "そう意識したらああなる"、という風に身に覚えられているもののことです。
"意識が向けられる、向いちゃう"、というのはそういうものがあるからなのです。...何にしても語るだに微妙なことに違いありません。
と、まあ普段当たり前のようになっていることを書いてみたのですが、客観的になり得ないようなことを、分かりやすく客観的に書いてみたのですが、余計訳が分からなくなったかもしれません...。
と...こう、いつも微妙な言い回しをいつもしている訳ですが、これはもう、私が書いていることのほとんどがこういうことになってしまうのです。
自動詞で書いているものが他動詞に転化してしまう...これは、表層的な思考の領域と、その奥に隠れた純粋意識というべき領域との関係を言い表しているに他ならないのです。
意識をある一点に集中する~自ずと意識が収斂されてくる...
自分自身を見つめてみる~自己観察とされるものが、自己の方が観察されるもの、照明が当てられるものに取って代えられる...
こういう風に書けば分かりやすいと思うのですが、これは私の場合、能動的に意念を働かせて、あることに取り組んでいけば、そのうち他動的に、無為的な方に転化して行く、ということを言っている訳ではありません。
これは、スイッチを押すと電気が付くというようなことよりも、もっと即性をもった転化の様態のことを言っているのです。(といって、全く受動的、何もしない、懐手のままでいい、という訳でも無いから...要するに微妙なんです)
あえて、能動的な部分を働かす、と言えるのは...ただ、そのことを"意識する"、というだけでしょうか...(いや、そのことすら"意識させられちゃった"部分もあるくらいです)
もう、それだけで自動的に意識のそのような動きが始まるのです。
そう、意識が動き、流れ出すのです。これは、言うまでもないことですが、主我的な私の意のままにコントロールすることとは全く違います。
むしろ、その逆で主我的な思いは後退し、その意識の動きに従う、というか化されてゆくのです。
あることで迷っていて、例えば精神的な道で、Aという教えとBという教えがあり、どちらを選択するか、という場合、あれこれ考えるのをやめて"あれ"を意識してみる...するとどっちかに意識が動き、集まってきたりする...して、自ずとそっちに赴く...
こういう風なことを、"意識を当ててみる"、などと言う向きもあるのですが、先の如く、"当てられる、当たってくる"という方がピッタリするのです。
これは、"見えない導き"というものの一端なのですが、意識が集まるところに愛、平安、リアリティがある、と言ってもいいのです。
"あれ"というのは、その...何だろう? "そう意識したらああなる"、という風に身に覚えられているもののことです。
"意識が向けられる、向いちゃう"、というのはそういうものがあるからなのです。...何にしても語るだに微妙なことに違いありません。
と、まあ普段当たり前のようになっていることを書いてみたのですが、客観的になり得ないようなことを、分かりやすく客観的に書いてみたのですが、余計訳が分からなくなったかもしれません...。