私はいつも、"思いを超える、超えたもの"、というように、人間の思考にはその限界、それを超えたものが示される、境界といったものが厳然とあると言ってきました。
これは、"もう何も考えられない"、という具体的な感覚でテキメンに分かることなのです。
では人間の感情、情動に関わることはどうなのでしょうか?
これにも喜怒哀楽などの日常的な感情を表層的なものとすれば、普通では味わえないような、言うなれば深層的、あるいは超越的情動ともいうべきものが知られるのです。
それがどういうものであるかは、超思考的なものと同様、表現するのが困難なのです。
何しろ通常の思考、感情では捉えられないものなので...ただ、私はそこから直ちに想起される、"愛、平安に満ちている"という表現から、なにがしかのものを汲み取って頂くしかない、と思っているのです。
で、この情動に関する領域には、はっきりとした境界があるのか?ということについては私にはよく分かりません。
特に愛に関わるもの、一番(説明する上で)分かり安いのは愛情を伴うものについてです。(逆にこれが境界が分かりにくいということ。私の場合)
勿論、そのより情感のより深い部分では、"好いた、惚れた、愛しい、胸きゅんi"、といった通常の感情は超えられているのは言うまでもありません。
そこには、異性、親、兄弟、ペットでもいいですが、その対象としていた存在はもはや、思われたままではなくなってしまうのです。
その大切な存在は存在として、ちゃんとあるんですが、一方では形を超えた存在のように感じてきます。
それで、その存在への愛は薄れてしまうのでしょうか? いや、さらに愛しいものへと昇華してしまうかのように感じられるのです。
ここに今まであまり明らかにされてこなかった、"人生の裏側"の秘密があるのです。
それは、その自分の外なるものとしての対象が、言わば人の内に隠された原初的な愛と一つになってしまうようなことです。
原初的な愛は自己に元々与えられているもので、これ無くしてそもそも、そうした愛情は生まれ得ません。
そして、そこで感じられるものには、あの"じんじん"と現臨の愛に包まれるような感じと通じるものがあるのです。つまり、そこにはエクスタシーがあるi
といっても、これはよく引き合いに出される、あの楽しいH系のそれと似たものではあれ、永続性があるか、泡沫的なものであるか、という点で区別しています。勿論あの愛に根差した、交わりというのはあるでしょうが...
エクスタシーの本来の意味は、存在を超えるということなのです。そこには私も対象も無い。
そして、悲劇的にも愛すべき対象は、常にそこに在る訳じゃありません。失ったり、変質したり、何よりもこちらの愛情も冷めることがあります。
しかし、そこに無対象的な原初的な愛というものがあるのを発見したのなら、その対象となる存在は、別様の輝きを見せるかもしれません。
又その存在がその愛の道案内となるかもしれないのです。見える対象としてのみにとらわれなければ...
そして又、それが失恋や別離、片思いなどで報われないものであったとしても、あなたの内には決して愛が失われた訳じゃないのです。
あなたの内には最愛なるものがちゃんとあるi
最愛なるものにあって幸福でない訳がありません。
このことを知るだけで、人生は思われたものではなくなりますi
そして、私には最愛なる見える存在と、見えない最愛なるものとの境目というのは、在るような無いような...どっかでつながっているように感じてしょうがないのです。
これは、"もう何も考えられない"、という具体的な感覚でテキメンに分かることなのです。
では人間の感情、情動に関わることはどうなのでしょうか?
これにも喜怒哀楽などの日常的な感情を表層的なものとすれば、普通では味わえないような、言うなれば深層的、あるいは超越的情動ともいうべきものが知られるのです。
それがどういうものであるかは、超思考的なものと同様、表現するのが困難なのです。
何しろ通常の思考、感情では捉えられないものなので...ただ、私はそこから直ちに想起される、"愛、平安に満ちている"という表現から、なにがしかのものを汲み取って頂くしかない、と思っているのです。
で、この情動に関する領域には、はっきりとした境界があるのか?ということについては私にはよく分かりません。
特に愛に関わるもの、一番(説明する上で)分かり安いのは愛情を伴うものについてです。(逆にこれが境界が分かりにくいということ。私の場合)
勿論、そのより情感のより深い部分では、"好いた、惚れた、愛しい、胸きゅんi"、といった通常の感情は超えられているのは言うまでもありません。
そこには、異性、親、兄弟、ペットでもいいですが、その対象としていた存在はもはや、思われたままではなくなってしまうのです。
その大切な存在は存在として、ちゃんとあるんですが、一方では形を超えた存在のように感じてきます。
それで、その存在への愛は薄れてしまうのでしょうか? いや、さらに愛しいものへと昇華してしまうかのように感じられるのです。
ここに今まであまり明らかにされてこなかった、"人生の裏側"の秘密があるのです。
それは、その自分の外なるものとしての対象が、言わば人の内に隠された原初的な愛と一つになってしまうようなことです。
原初的な愛は自己に元々与えられているもので、これ無くしてそもそも、そうした愛情は生まれ得ません。
そして、そこで感じられるものには、あの"じんじん"と現臨の愛に包まれるような感じと通じるものがあるのです。つまり、そこにはエクスタシーがあるi
といっても、これはよく引き合いに出される、あの楽しいH系のそれと似たものではあれ、永続性があるか、泡沫的なものであるか、という点で区別しています。勿論あの愛に根差した、交わりというのはあるでしょうが...
エクスタシーの本来の意味は、存在を超えるということなのです。そこには私も対象も無い。
そして、悲劇的にも愛すべき対象は、常にそこに在る訳じゃありません。失ったり、変質したり、何よりもこちらの愛情も冷めることがあります。
しかし、そこに無対象的な原初的な愛というものがあるのを発見したのなら、その対象となる存在は、別様の輝きを見せるかもしれません。
又その存在がその愛の道案内となるかもしれないのです。見える対象としてのみにとらわれなければ...
そして又、それが失恋や別離、片思いなどで報われないものであったとしても、あなたの内には決して愛が失われた訳じゃないのです。
あなたの内には最愛なるものがちゃんとあるi
最愛なるものにあって幸福でない訳がありません。
このことを知るだけで、人生は思われたものではなくなりますi
そして、私には最愛なる見える存在と、見えない最愛なるものとの境目というのは、在るような無いような...どっかでつながっているように感じてしょうがないのです。