私は生来、わがママで、主我的な思いの強さが抜けきれない人間です。
多分、一生このママでしょうから、性格の改善などのことは、とっくに諦めています。
ところが...そんな自分はそのママで、いつしか自ずとその主我的な自分が後退してしまうようなことに毎日のようになってしまうのです。 "じんじん"と"あのもの"が臨んでくることで...。
"現臨にある"、ということは、このようにそのものの方が主体的になり、この思われた私は後退してしまうことに他なりません。
それでは、私と感じている、この私はボカされて行くのでしょうか?
とんでもありませんi そのようになっている私の方がずーっと本来の自分、私らしい私で居られるのです。
では、自分で言うのもおかしいですが、私とは一体何が生きているのでしょうか?
この一コの肉体をまとった、あれこれ考えている自分は何なのでしょう?
少なくとも、それが"すべての私"であるとは、もはや思えない、感じられなくなってしまった、とは言えるのです。
"現臨にある"、というのは、そういう意識状態のことを言っているのですが、もっと感性に訴えるような表現で言えば...~マ、表現出来ないものでありますが~
そこには"マ"がある、"マ"が生きていると言わんか... マあ、一寸感性を働かせて、"マ"というヒビキから何かを感じ取ってみて下さい。
そこに、真、マコトなるものが感じられる...そこには又"間"というものが感じられます。
思われた自分の内側、外側の間、時と場の間、個と普遍の間、神と人間の間、見えるものと見えないものの間、表側と裏側の間...つないでいるもの... 又、人と人との間に"マ"が生まれることで、愛、調和がもたらされるでしょう。
これによって主我的に"私が..."、と出たがる線が抑えられる...短絡的に事物に囚われることで、"マ"に到らないハメにならないような間が生まれる... この"マ"の方が生きてハタライている...顕わになっている...それにうち任すのみ...ママに...。
"目の当たりにする"とは、私がよく使う表現ですが、どういうことなのかは説明出来ないのです。
説明、理屈ごとにしたら、多分"マ違う"でしょう。各々が"マの当たり"にするっきゃならないものでしょう。
"マ"にあることは、二つ別々に切り離されているものでも、いっしょくたになってるものでもありません。
"一つになる"、ということは、より本質的には"マ"にあるということなのでしょう。(そんな文例などありませんが...)
私はどうも段々、"マ"と一つになって行く感じを覚えているのですが、そのうち個我意識が消滅してしまうのかしらん...
マ、何事も、ママに...です。
多分、一生このママでしょうから、性格の改善などのことは、とっくに諦めています。
ところが...そんな自分はそのママで、いつしか自ずとその主我的な自分が後退してしまうようなことに毎日のようになってしまうのです。 "じんじん"と"あのもの"が臨んでくることで...。
"現臨にある"、ということは、このようにそのものの方が主体的になり、この思われた私は後退してしまうことに他なりません。
それでは、私と感じている、この私はボカされて行くのでしょうか?
とんでもありませんi そのようになっている私の方がずーっと本来の自分、私らしい私で居られるのです。
では、自分で言うのもおかしいですが、私とは一体何が生きているのでしょうか?
この一コの肉体をまとった、あれこれ考えている自分は何なのでしょう?
少なくとも、それが"すべての私"であるとは、もはや思えない、感じられなくなってしまった、とは言えるのです。
"現臨にある"、というのは、そういう意識状態のことを言っているのですが、もっと感性に訴えるような表現で言えば...~マ、表現出来ないものでありますが~
そこには"マ"がある、"マ"が生きていると言わんか... マあ、一寸感性を働かせて、"マ"というヒビキから何かを感じ取ってみて下さい。
そこに、真、マコトなるものが感じられる...そこには又"間"というものが感じられます。
思われた自分の内側、外側の間、時と場の間、個と普遍の間、神と人間の間、見えるものと見えないものの間、表側と裏側の間...つないでいるもの... 又、人と人との間に"マ"が生まれることで、愛、調和がもたらされるでしょう。
これによって主我的に"私が..."、と出たがる線が抑えられる...短絡的に事物に囚われることで、"マ"に到らないハメにならないような間が生まれる... この"マ"の方が生きてハタライている...顕わになっている...それにうち任すのみ...ママに...。
"目の当たりにする"とは、私がよく使う表現ですが、どういうことなのかは説明出来ないのです。
説明、理屈ごとにしたら、多分"マ違う"でしょう。各々が"マの当たり"にするっきゃならないものでしょう。
"マ"にあることは、二つ別々に切り離されているものでも、いっしょくたになってるものでもありません。
"一つになる"、ということは、より本質的には"マ"にあるということなのでしょう。(そんな文例などありませんが...)
私はどうも段々、"マ"と一つになって行く感じを覚えているのですが、そのうち個我意識が消滅してしまうのかしらん...
マ、何事も、ママに...です。