「私が寛容なのか、それとも寛容でないのかについて、人々の意見は分かれていた。...それはどちらも正しいのである」(ベルジャーエフ「わが生涯」)
ベルジャーエフは、愛犬、愛猫が死んだ時、号泣してしまうほど愛すべき魂の持ち主でした。
特に猫の「ムリー」の死について、その自伝で、「私は彼を介して、救済を待望する全被造物と結ばれているように感じた」と、格別に、詩的な感傷を持って綴っていたのが印象に残ります。
しかし、これはベルジャーエフの"知られざる顔であった"、と見るべきで、彼はいつも貴族然(実際に旧ロシアの貴族の血を受けていた)とした、男っぽい心性の持ち主として現れていたのです。
彼の語り口は、概ね断言、直言的で、全く妥協を許さないような心的態度が伺われます。
この傾向について「私には、イデオロギー的情熱の方が情緒的情熱よりも強かったので、ともすれば交流、愛のよろこびを断念しなければならぬことがあった」と、ある意味で彼の男性性、父性の強さを示していることを記しているのです。
同様のことは、手島先生にも、又私は直接何度も接していましたが、小池先生にも、ある面でそういう印象を感じています。
では、ここ最近愛についてばかり書かされている私には...これがあるのですi 彼らの怒りっぽい血を受けているみたいに...
それは多分、私の"知られざる顔"なのでしょう。こういう顔は滅多に表に出すことは無いですが、最近は縁遠くなった、いくつかの集会を共にした人なら知っている人も居るでしょう。
私はそれらの集会の中で、抗し難い激情に駆られたことがしばしばあります。ことに宗教的な集会で、生ける神的なものを、人間的な思念で覆い隠し、見えなくさせてしまうような心的態度に接した時など、我慢の出来ない怒りを覚えます。
しかし、実際に爆弾を投下し、炸裂させたことは、自覚している限り一度も無かったでしょう。(そうは取っていない人も居るかもしれませんが...あくまで私の"起爆性の尺度"からということです)
これは私に固有の、男っぽい一面として自覚していることなのです。
かように、私は例えば時に、"あの厚顔無恥(知)の徒をぶったたいてやりたいi"、という激情に駆られることもあるのですが...そのままということは無いでしょう...多分。
激情の嵐に呑まれて居る時はともかく、もしもそこに愛の交流の発露を感じたとしたならば...私の男性性、父性は抑えられて、母なる愛に赴くと思います。
最愛なるものに自ずと赴く、思いを超えた恩寵を受けるということはそういうことなのです。
このことは、本当は男性性、父性と女性性、母性といった枠組みを超えたものなのでしょう。神的なものとは、相対を超えたものなのだから...
あの表向き男っぽい顔を見せる、人生の教師たちも神的な愛にあって涙を流す人たちに違いないでしょう。(彼らが激情に任せて"吼え"たりすることも、多くは止むに止まれない、思いを超えた次元からもたらされる、ということも私なりに理解していますが...)
愛というもの...神的な愛も女性性、母性的なものと結び付けられることが多いようです。
それはしかし、人類の歴史が父権的なものに支配されていたことと関係があったのでしょう。
神は、ずっとその歴史の中に押し込められ、隠され続けていたのです。
今は、我々の"知られざる顔"が顕わになりつつあるのでしょうか?
ベルジャーエフは、愛犬、愛猫が死んだ時、号泣してしまうほど愛すべき魂の持ち主でした。
特に猫の「ムリー」の死について、その自伝で、「私は彼を介して、救済を待望する全被造物と結ばれているように感じた」と、格別に、詩的な感傷を持って綴っていたのが印象に残ります。
しかし、これはベルジャーエフの"知られざる顔であった"、と見るべきで、彼はいつも貴族然(実際に旧ロシアの貴族の血を受けていた)とした、男っぽい心性の持ち主として現れていたのです。
彼の語り口は、概ね断言、直言的で、全く妥協を許さないような心的態度が伺われます。
この傾向について「私には、イデオロギー的情熱の方が情緒的情熱よりも強かったので、ともすれば交流、愛のよろこびを断念しなければならぬことがあった」と、ある意味で彼の男性性、父性の強さを示していることを記しているのです。
同様のことは、手島先生にも、又私は直接何度も接していましたが、小池先生にも、ある面でそういう印象を感じています。
では、ここ最近愛についてばかり書かされている私には...これがあるのですi 彼らの怒りっぽい血を受けているみたいに...
それは多分、私の"知られざる顔"なのでしょう。こういう顔は滅多に表に出すことは無いですが、最近は縁遠くなった、いくつかの集会を共にした人なら知っている人も居るでしょう。
私はそれらの集会の中で、抗し難い激情に駆られたことがしばしばあります。ことに宗教的な集会で、生ける神的なものを、人間的な思念で覆い隠し、見えなくさせてしまうような心的態度に接した時など、我慢の出来ない怒りを覚えます。
しかし、実際に爆弾を投下し、炸裂させたことは、自覚している限り一度も無かったでしょう。(そうは取っていない人も居るかもしれませんが...あくまで私の"起爆性の尺度"からということです)
これは私に固有の、男っぽい一面として自覚していることなのです。
かように、私は例えば時に、"あの厚顔無恥(知)の徒をぶったたいてやりたいi"、という激情に駆られることもあるのですが...そのままということは無いでしょう...多分。
激情の嵐に呑まれて居る時はともかく、もしもそこに愛の交流の発露を感じたとしたならば...私の男性性、父性は抑えられて、母なる愛に赴くと思います。
最愛なるものに自ずと赴く、思いを超えた恩寵を受けるということはそういうことなのです。
このことは、本当は男性性、父性と女性性、母性といった枠組みを超えたものなのでしょう。神的なものとは、相対を超えたものなのだから...
あの表向き男っぽい顔を見せる、人生の教師たちも神的な愛にあって涙を流す人たちに違いないでしょう。(彼らが激情に任せて"吼え"たりすることも、多くは止むに止まれない、思いを超えた次元からもたらされる、ということも私なりに理解していますが...)
愛というもの...神的な愛も女性性、母性的なものと結び付けられることが多いようです。
それはしかし、人類の歴史が父権的なものに支配されていたことと関係があったのでしょう。
神は、ずっとその歴史の中に押し込められ、隠され続けていたのです。
今は、我々の"知られざる顔"が顕わになりつつあるのでしょうか?