私が本格的に西田哲学に触れたのはつい最近のことです。
しかし、どうもずっと以前から親しんでいたような気がしてなりません。
もっとも、西田先生の影響を受けた諸先生は、宗教、哲学(宗教哲学!)方面に随分と居られるので、彼らを通じて間接的に何かが伝えられたのかもしれません。
あるいは例えば、私がしばしば言い表す、”超越的なもの無しに私は在り得ない”、とか“私は私でないほど私そのものになる”などの言葉にそういうニオイを嗅ぎつける人も居るかもしれません。
”パクリか!“、な~んて、何でもいいですよ!...私が言っていることには何一つオリジナルなものなど無いんですから!...
ただ、ああいうのは、多くベルジャーエフに負っていることは、言っておきたいのですが...要するに共感、共鳴したのです。それは元々私自身の内に息づいているものがかく呼び起こされた、と言ってもいいでしょう。
こういうことというのは、考えている自分だけからは絶対に出て来ないのです。
いや、そもそもそれだけで生きている人間(一個体なる自分)、など存在する訳が無いのです。瞬く間に袋小路に追いやられて、窒息するに至りますよ!
自分で自分を追い込まない限り、袋小路などどこにも無いのです!
人間が存在しているということは、ある場所の中に、いや自己の中も回りも場所とともに在るということが言えるのです。
西田先生にその“場所の論理“という、分かったような、分からんような学説がありますが、コ難しい理屈を知るのは、一部の好事家に任せておくとして、万人向きとは言えませんが、そういう見えない場所、空間と共に在る、いや、そういうものに在らしめられて生きていることは、すべての人間にとって極めて重要なことと言わねばならないでしょう!
私はいつでも一個しかない私から出ることが出来るのです!
そこには場所がある、空間がある、自由があるのです!
これは、万人への福音でなくて何であろう!
このことは、思考以前の、あるいはそれを超えた意識に在ること(意識してたらいい!)で自明なものとなるのです!
私というものを意識してみると...ああ、もう現臨だとか、神だとか、超越者、内なるもの、実存...ここで言って来たことがすべてある場所でつながってしまうではないか!?
“私が生きているということは、場所的自己が生きているということである!、見えざる空間と共に在る!“...これは、自己を超えたもの、自己たる以前からある内在的なものの相反する、矛盾的なものが、それでいて切り離されないものが同一的に在る、ということを物語っているのではないか?(難しいこと考えんでも、そうらしいことを感じてたらいいのです!)
これで、西田哲学は分かった!
な~んてこと、言っているのは誰だ!...見えざる空間には誰も居ない?...
しかし、どうもずっと以前から親しんでいたような気がしてなりません。
もっとも、西田先生の影響を受けた諸先生は、宗教、哲学(宗教哲学!)方面に随分と居られるので、彼らを通じて間接的に何かが伝えられたのかもしれません。
あるいは例えば、私がしばしば言い表す、”超越的なもの無しに私は在り得ない”、とか“私は私でないほど私そのものになる”などの言葉にそういうニオイを嗅ぎつける人も居るかもしれません。
”パクリか!“、な~んて、何でもいいですよ!...私が言っていることには何一つオリジナルなものなど無いんですから!...
ただ、ああいうのは、多くベルジャーエフに負っていることは、言っておきたいのですが...要するに共感、共鳴したのです。それは元々私自身の内に息づいているものがかく呼び起こされた、と言ってもいいでしょう。
こういうことというのは、考えている自分だけからは絶対に出て来ないのです。
いや、そもそもそれだけで生きている人間(一個体なる自分)、など存在する訳が無いのです。瞬く間に袋小路に追いやられて、窒息するに至りますよ!
自分で自分を追い込まない限り、袋小路などどこにも無いのです!
人間が存在しているということは、ある場所の中に、いや自己の中も回りも場所とともに在るということが言えるのです。
西田先生にその“場所の論理“という、分かったような、分からんような学説がありますが、コ難しい理屈を知るのは、一部の好事家に任せておくとして、万人向きとは言えませんが、そういう見えない場所、空間と共に在る、いや、そういうものに在らしめられて生きていることは、すべての人間にとって極めて重要なことと言わねばならないでしょう!
私はいつでも一個しかない私から出ることが出来るのです!
そこには場所がある、空間がある、自由があるのです!
これは、万人への福音でなくて何であろう!
このことは、思考以前の、あるいはそれを超えた意識に在ること(意識してたらいい!)で自明なものとなるのです!
私というものを意識してみると...ああ、もう現臨だとか、神だとか、超越者、内なるもの、実存...ここで言って来たことがすべてある場所でつながってしまうではないか!?
“私が生きているということは、場所的自己が生きているということである!、見えざる空間と共に在る!“...これは、自己を超えたもの、自己たる以前からある内在的なものの相反する、矛盾的なものが、それでいて切り離されないものが同一的に在る、ということを物語っているのではないか?(難しいこと考えんでも、そうらしいことを感じてたらいいのです!)
これで、西田哲学は分かった!
な~んてこと、言っているのは誰だ!...見えざる空間には誰も居ない?...