人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

主語のない世界

2023-02-04 09:34:42 | 意識、照明
西田哲学で言われる“場所“という概念は、ズバリ意識の世界と関わるものです。
“意識の野“とか言うが、どうもそのような眼下に眺められたような世界とは違う感じですが...
それは「述語となって主語とならない」世界だと言う。
これは、実に的を射た表現だと思いますね。私は思わず頷いちゃいました。
いや、もう.“私は...“なんて言うのやんなっちゃいますよ!...ただ、頷いちゃう、頷くものが在るのです。
こういうことは、難しく哲学的に考えなきゃ分からない、な~んてことは全くありません。
我々がごく日常的に経験しているものなのであり、西田先生はそれを哲学的に究明したまででしょう。
(私は)このプログの初発の記事からそういうことを書いているのです。それはこのプログの基調と言っていいでしょう。
”夕日が美しい!”...私が考えなくても、どうこうしなくてもそれは美しいのです。
まあ、”感じる”ということはあるんですけど、我々日本人はことさら”私は美しいと感じる”なんて回りくどく言わなくても、”夕日が美しい!”で済んでしまうのです。
意識の世界は、その取っ掛かりとして、”意識してみる”という意志的働きかけはあるのですが、それは元々開かれてあるので、思う間もなく転じられてしまいます。
思う以前からあり、思いを超えている...「超越的場所」(西田先生)
そして、”私は...”...主語は落ちてしまう!
こうなると、私は思った!、為した!、得た!...なんてことはすべて言えなくなってしまうのです。だから...”私は分かった!”なんて言ってる人間ほど何も分かっていないということでしょう?
まして、“私は悟った!“などと宣うとは!...私が思い、為そうとする閉じられた世界から何が開かれるというのか?!
主語がない、ということは又、それにつけ加えることは何もないということです。
受けたもの、感じたままを受け入れるだけ!...そこではかく想像したとか、主観的に思い描かれたものは断ち切られてしまうのです。
何段階とか、究極とか、完全とか、自分が考え、目指そうとする、そういう“盛られた“話など入る余地などないでしょう。
そういうことは、然るべき“場所“に出て、言ってもらおうじゃないか!
黙るしかないだろうが!...
コメント
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