人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

普遍宗教の夢

2023-02-10 09:59:42 | 宗教
何故、世に数多相異なる宗教宗派があり、異なる神、教えが説かれ、相反目し合っているのだろうか?...日本でこそあまり見られないとはいえ、世界ではいつの時代でも、その相克から戦争にまで発展してしまう有様です。
私には昔から神は一なるものであり、人は神にあって調和に導かれることが出来る、という暗黙の理解がありました。 それは、学生時代M教団の信者だった頃からそうだったのでして、そこを辞めた理由は、その独善的在り方に疑問を抱いたからでもあったのです。
”宗教が争いの要因になるのなら、そんな面倒なものすべて消えて無くなってしまえばいいんだ!”、と何度願ったことでしょう!(神に?)
私の精神的求道は、そこから脱退したことを機に本格的に始まった訳ですが、その一つの目的は宗教思想の相異を超えた不変、普遍なる真理を究明することにもあったのです。
そして、その求道の初期において、如何にもそれらしきことを謳っている教えにも接し、一時は共鳴することもありましたが、本当に、ホント~に全心全霊が揺すぶられるようなことには至らなかったのです。
むしろ、その教えが皮相的な段階に留まっていて、内実は数多の相異する団体の一つと変わらない様相を見るにつけ、失望感を味わうことになってしまう始末なのでした。
それもそのはず、それは教えというものがそうであるように、”言葉”によって述べられ、書き表され、人が集まるところ、何らかの”派”的な形を取らざるを得ず、多かれ少なかれ相対性というものを受けてしまうのは宿命と言っていいからです。
もし、この世のどこかに誰もが得心出来るような普遍的な教理を持ってする世界宗教、世界教師のような存在が現れたとしても、それはドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」中で描いた、大審問官の如き、反キリスト、サタン的ギマンに満ちたものとならざるを得ないでしょう。
普遍的真理というものは、かように語られる、書かれる言葉、見える形などに求むべくもないものなのです!
だからといって、そういうことを考える私が、相対の限界内を生きている私が一体、どうやってそれを超えた普遍世界を見い出すことが出来るというのでしょうか?
いや、そもそもそんな流通普遍の真理などというものは、所詮考える人間が思い描いた理想郷、幻想、夢に過ぎないのでしょうか?
とにかく、見える現実にあって、それはいたずらに幻滅を味合わされるだけなのでした。
”この教え、この先生はホンモノなんですよ!”、だと!、分かった、さっさと消え失せろ!
しかし...私の内からは、あの”神は一なるものである、人は神にあって調和に導かれることが出来る”、という思いは一度も消え失せたことが無いのでした!
何という、性懲りの無いサガなのでしょう?(私だけか?)
コメント
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