人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無相なる主

2023-02-05 09:39:04 | 現臨、ハタラキ
小池辰雄先生の講話というのは、仏教の話などもふんだんに出て来たり、自由自在に展開されるのですが、一方で「我々はただ一人の主イエス.キリストに一向一念して...」とか「神への道はキリストだけがその道だということです」(1959年5月の講話)など、一寸偏狭に感じてしまうことも言っておられるのです。
私はどうもそこに、あのキリスト教特有の空気を感じてつまずいてしまい、中々一歩踏み入れることが出来なかったのです。
”あれは見えるキリストに囚われているのではないか?”、と!...”それでは、先生が常々言われる「キリストは無者である」という言葉は死んでしまうではないか?”、と!
又「キリストと一つとなる」と言われる。ブッダと比べてどうだとか、イエスと比べられるものは絶無であるとか!...
言葉の言い回しにご留意を!...比べるべき何ものも無い、無双、無相でなければ一如の関係とはなり得ないのです!...先生は残された言葉から受けるところ、この辺りのことは正直曖昧なところがあったと思います。しかし、確かにその”無相なる主”の消息も伝わるものがありました。
我々一人一人は、相対的現実の局面を生きている訳で、おそらく先生はそれに応じた説き方をされていたのでしょう。先の言葉は、道はアレコレあるというものでない、一道である、という”主一なる在り方”を示さんがために表されたことをつけ加えておきます。
私にとって主とは、聖書のイエスかどうかは知りません。主なるもの...それは文字どおり、私の主となるものでなくて何であろう!...このもの無くして私たり得ないもののことです!
私の実存と切り離されないもの...それを神と言うならば、他に神は存在しないのであります。
私の現実に臨みたもう主!...絶対無の自己限定(西田幾多郎)と言わんか!
主の現臨によらなければ、神は宇宙の最高神と言おうと、真実の救世主と言おうと、思い描いた神に過ぎないのです。
一つの主あるのみ!...主にあって一つ!...私は無とされ、対象である有相なる主も無となる!...
ここに、”キリスト教か仏教か”という相対次元は突破されざるを得ない!
されど、私というしょうむない人間は、相も変わらず性懲りなく生きているのです。
人間なんだからしょうむないのです。お互い人間的なあれやこれやのことも...
主にあって、どうでもよくなりました!...小池先生も天界で笑っておられるだろう...
コメント
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