主流のキリスト教というのは、も、とにかく聖書中心なのです。
聖書が絶対権威であり、それからズレたら大変なことになるらしい?...縁の無い人には全くどおってこたない話なんですが...
又、日本で昔から知られている、”拝むこと”を中心とした神道、仏教、その混淆体などの民間宗教では、とにかくその経文もですが、神仏の”ご託宣”というのが、絶対的な影響力を持っています。
前者は比較的知識階級の人が多く、そうでない後者を下に見たり、バカにしたりするようですが、”言葉”に権威を与え、支配されているのは同じだと思うのです。
そういうもの以外でも、様々な宗教では、多く独自のその教祖さんなり、教典なりの”お言葉”が絶対権威として崇められているのです。
その金科玉条は私心で疑ったり、つけ加えたり改めたりすることは出来ないようなのです。
やはり縁の無い人には、バカバカしいことなんですが...自分がある宗教に信従していて、人が同じように別の宗教に信従しているのを見て、多分オカシイと感じるのでしょうが、自分も同じように思われているのだろうとは感じないのでしょうか?...自分はひょっとしてオカシイのだろうか?と感じる人は何人居るでしょうか?...まあ、そういうことが見えないことがハマるということなんでしょう?(私もこういう心理は経験していて分かりますよ!)
その”みコトバ”、聖書には”始めに言葉ありき...言葉は神なりき...”とあります。これで、如何に言葉に絶対権威が与えられているかが知られるでしょう。
このコトバとは、元はギリシア語の”ロゴス”のことですが、その原意は我々が読み、語り、記す形ある言葉である訳が無い!...自分自身に即してみれば分かるでしょう!
自分の物心つく前から言葉はあったのか?...何でそれが神と共にあったなどと言えるのか?
それは、言葉以前の神的な、その...つまり何だ?...”神的なハタラキ”というか、要するに原初のコトバなのです。古い訳にある、老子とも通ずるであろう”道”でもいいでしょう。
とにかく、それは、私自身の始原とも関わるもののはずなのです!...“そう書いてあるから”なんて言葉の奴隷になっていては絶対に分からない、あるものでしょう。
その神のハタラキの前では、私の思いも、為そうとする意志もハタラキません!
勿論、疑うことも、付け加えたりすることも出来ません!
それは絶対的な意味を持っています。ただし、人間精神が創り出す権威というものはありません。それに支配されるということも当たらないでしょう。思っていた私がその前には無力であっても、それ以前から在る、それを超えた私が自由に、顕わになるからです!...それは全くもってその私そのものと切り離されるものではありません!
こういうことは、我々の思考を超えた意識の領域で行われることなのですが、多くの宗教などで見られる、言葉に支配された神信仰というものは、この原初的な神の顕現に伴う秘儀がどっかとで我々の表層に刷り込まれていて、思考の次元で変質して置き換えられたもの、と思われます。
その端的な表れが、原初の形なきロゴスが形ある言葉に置換されることでしょう。
我々のまっ中心にある実存に照らしてみれば、見える言葉に囚われ、見えないコトバの恩恵に与るという、この二つの道の差し示すところには何と天と地ほどの開きがあることか!...
聖書が絶対権威であり、それからズレたら大変なことになるらしい?...縁の無い人には全くどおってこたない話なんですが...
又、日本で昔から知られている、”拝むこと”を中心とした神道、仏教、その混淆体などの民間宗教では、とにかくその経文もですが、神仏の”ご託宣”というのが、絶対的な影響力を持っています。
前者は比較的知識階級の人が多く、そうでない後者を下に見たり、バカにしたりするようですが、”言葉”に権威を与え、支配されているのは同じだと思うのです。
そういうもの以外でも、様々な宗教では、多く独自のその教祖さんなり、教典なりの”お言葉”が絶対権威として崇められているのです。
その金科玉条は私心で疑ったり、つけ加えたり改めたりすることは出来ないようなのです。
やはり縁の無い人には、バカバカしいことなんですが...自分がある宗教に信従していて、人が同じように別の宗教に信従しているのを見て、多分オカシイと感じるのでしょうが、自分も同じように思われているのだろうとは感じないのでしょうか?...自分はひょっとしてオカシイのだろうか?と感じる人は何人居るでしょうか?...まあ、そういうことが見えないことがハマるということなんでしょう?(私もこういう心理は経験していて分かりますよ!)
その”みコトバ”、聖書には”始めに言葉ありき...言葉は神なりき...”とあります。これで、如何に言葉に絶対権威が与えられているかが知られるでしょう。
このコトバとは、元はギリシア語の”ロゴス”のことですが、その原意は我々が読み、語り、記す形ある言葉である訳が無い!...自分自身に即してみれば分かるでしょう!
自分の物心つく前から言葉はあったのか?...何でそれが神と共にあったなどと言えるのか?
それは、言葉以前の神的な、その...つまり何だ?...”神的なハタラキ”というか、要するに原初のコトバなのです。古い訳にある、老子とも通ずるであろう”道”でもいいでしょう。
とにかく、それは、私自身の始原とも関わるもののはずなのです!...“そう書いてあるから”なんて言葉の奴隷になっていては絶対に分からない、あるものでしょう。
その神のハタラキの前では、私の思いも、為そうとする意志もハタラキません!
勿論、疑うことも、付け加えたりすることも出来ません!
それは絶対的な意味を持っています。ただし、人間精神が創り出す権威というものはありません。それに支配されるということも当たらないでしょう。思っていた私がその前には無力であっても、それ以前から在る、それを超えた私が自由に、顕わになるからです!...それは全くもってその私そのものと切り離されるものではありません!
こういうことは、我々の思考を超えた意識の領域で行われることなのですが、多くの宗教などで見られる、言葉に支配された神信仰というものは、この原初的な神の顕現に伴う秘儀がどっかとで我々の表層に刷り込まれていて、思考の次元で変質して置き換えられたもの、と思われます。
その端的な表れが、原初の形なきロゴスが形ある言葉に置換されることでしょう。
我々のまっ中心にある実存に照らしてみれば、見える言葉に囚われ、見えないコトバの恩恵に与るという、この二つの道の差し示すところには何と天と地ほどの開きがあることか!...