人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内省と感性

2023-02-18 10:29:41 | スピリチュアル
いわゆる精神的な目覚めに与る人というのは、ほとんどが内省的な資質の人であり、又そういう心的な状態でなされると言っても過言でないと思います。
勿論、そうでない人であっても、そのように導かれるということはあるでしょうけれど...とどのつまり、思いを超えたものに開かれるということは、内省的なことと言っていいでしょう。
内省的というと、一般には思慮深く、よく考えることと結びつけられるようですが、何でそれが思いを超えたことと関わるのか?...なんて、もう、そこに重要なことが見落とされているのではないでしょうか?
これは知性偏重の傾向を物語っていて、そこにはそれ以上にある種の感性というものが働いていることが知られるのです。
この感性は、表層意識でああ思ったり、こう考えたりしている知性のもっと奥に働く別なる知性~例えば、多く仏教で説かれる智慧と関わるものであり、本来分けることが出来ないものなのです。
そして、我々の表層的思考マインドを突破するものこそは、このハタラキに他ならないでしょう。
古来、宗教と哲学は切り離されないものだったのですが、普通知性とか理性と訳されている、ギリシア語“ヌース“という言葉には、この感性的なものが含意されていたはずで、それが分離されてしまったところに、知が一人歩きしてしまう様態が生じたのでしょう。
私など哲学書を読む場合、当然知性を働かさないとならない訳ですが、ある鉱脈に突き当たると、パッタリとそれが止まってしまい、読み続けるのが困難になることがあります。そこに電撃のように思考マインドを切り開くものがこれなのです。
こういう時は、考えているのでなく、”感じている“のは言うまでもありません。
こう言って、何も難しい本を読まなければ、目覚めに与れないなんてこた無いですよ!
これに反して、例えばやたらと他人が言っていることを真に受けて、信従、追従してしまうような、洗脳されやすいような人間は全く内省的とは言えず、そういう契機はほとんど無いと言っていいでしょう。
普通に考えれば分かるように、その思念が強ければ強いほど、思いを超えた世界への道は閉ざされてしまうのです。
何故ならば、思考の表層に留まり、深みに入ることが無いから...自分自身の内奥に向き合っていないから...それは覚醒ならぬ、睡眠状態に置かれたままなのだから!...
自ら進んでそういう心的状態に意識を持っていってしまうような人間は、全くそのことに無自覚であり、気付くことがありません。従って反省ということもありません。
だから、人にはずっと、“ああ、あの妄想ばかりしてる人間か!“、というイメージで見られているのです。
精神的目覚めとは、気付き以外の何ものでも無いにも関わらず!
内省的であるとは、何よりも全く内省的でなく、その実自己に意識が向けられることのない、自己中心的な自己愛とは別の意味で、自分自身を信じ、愛するということでしょう。



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