「”私はキリストの内に、キリスト私の内に”、というのは形容的に言っているのですか?、形容じゃないですよ、現実ですから!、だからインの世界に入るのです」(小池辰雄)
小池先生はさかんに、”○○の中に入る、○○の中に”、ということを言われていました。
先生の場合は、キリストであった訳ですが、”信入、祈入...”といったように、とにかく入らなければダメなんだと!
この”イン”、というのは、”入る”ということでもありますが、すでに中に在るということでもあります。入って来るものがある!...それを受け”入れる”ことなんです。
これは、すべての宗教やスピ、精神的な道の焦点と言っても過言ではないでしょう。
何が焦点って、意識が自ずとある焦点に収斂されてゆくことでもあるんですから!...
思いを”入れる”...思いから離れる、意識的になる~意識世界に入る...それは同時に神、キリスト、如来といったものが、真向かいに顕わになるということなのです!...つまりはそういう現臨に在る、ということでしょう。
中に入らない、思いを超えた消息が分からないから、真偽の分からないことを妄想したり、エセ教師だとかに迷わされてしまうのです。インしてこないのは、アウトですよ!
そうして、いつまでも実存世界の外側、思念世界をグルグル回り続けているのです。
中に在るということは、神を傍観者のように見ていることじゃない!、いや見ているように感じない!...一枚、一如になっていることなのだから!
精神的な道では、否人生では、この”中に...”、という契機となるものに出会えるかどうかということが非常に大きいことです。
私などは最初、小池先生のそうした言葉に触れても、どうしたら中に入ることが出来るのか?、とか考えてしまったものです。
”これじゃ、アウトかな?”、なんて!...だけどどうしてもそのことが意識に植え付けられてしまったか、拭い去れないものを感じていたのです。
○○の中に入る、中に在る...きっと劇的に人生が変わるようなスッバラシイことに違いない!、と。もう、先生の書き物を読んでいるだけで幸福になっていました。
な~んてことはない!...私はすでに”入って来るもの”に捉えられていたのでしょう。
その中には、愛、平安、リアリティがあるのですから!
小池先生はさかんに、”○○の中に入る、○○の中に”、ということを言われていました。
先生の場合は、キリストであった訳ですが、”信入、祈入...”といったように、とにかく入らなければダメなんだと!
この”イン”、というのは、”入る”ということでもありますが、すでに中に在るということでもあります。入って来るものがある!...それを受け”入れる”ことなんです。
これは、すべての宗教やスピ、精神的な道の焦点と言っても過言ではないでしょう。
何が焦点って、意識が自ずとある焦点に収斂されてゆくことでもあるんですから!...
思いを”入れる”...思いから離れる、意識的になる~意識世界に入る...それは同時に神、キリスト、如来といったものが、真向かいに顕わになるということなのです!...つまりはそういう現臨に在る、ということでしょう。
中に入らない、思いを超えた消息が分からないから、真偽の分からないことを妄想したり、エセ教師だとかに迷わされてしまうのです。インしてこないのは、アウトですよ!
そうして、いつまでも実存世界の外側、思念世界をグルグル回り続けているのです。
中に在るということは、神を傍観者のように見ていることじゃない!、いや見ているように感じない!...一枚、一如になっていることなのだから!
精神的な道では、否人生では、この”中に...”、という契機となるものに出会えるかどうかということが非常に大きいことです。
私などは最初、小池先生のそうした言葉に触れても、どうしたら中に入ることが出来るのか?、とか考えてしまったものです。
”これじゃ、アウトかな?”、なんて!...だけどどうしてもそのことが意識に植え付けられてしまったか、拭い去れないものを感じていたのです。
○○の中に入る、中に在る...きっと劇的に人生が変わるようなスッバラシイことに違いない!、と。もう、先生の書き物を読んでいるだけで幸福になっていました。
な~んてことはない!...私はすでに”入って来るもの”に捉えられていたのでしょう。
その中には、愛、平安、リアリティがあるのですから!