”神のことは勿論、あなたの心のことはあなたの神に聞くべし!”
...ったって、神なんて居るかどうか分からん!...だから、人に、世の中の声に聞いたりする...彼らに心のことなど分かるだろうか、心ないものではないだろうか?...よって、ますます分からなくなり、迷ってしまうことになるのではないですか?
ためしに、”神よ!、あなたは本当に居られるのですか?”、と尋ねてみる...
ああ、もう!...耳鳴りぴきーっと、全身全霊を包むバイブレーション、じんじんと、一際増してくる!...本当に神なのかどうかは分かりませんが、こういう応答のようなのはテキメンにあるのです!
これは、いつも言っている、”神に意識を向ける”ということのバリエーションのようなものなのですが、もっと直に尋ねるという風に向けると、もっとズシンと何か重みがかかり、意識が揺さぶられるというか、何かより意識がその尋ねる問題に集められてゆく、収斂されてゆくようになるのです。
勿論、私の意志想念でそうするということでなく、自ずとそうなるということなのですが...
もっとも尋ねるといっても、あれはどうなんですか?、とかごちゃごちゃと思念的な話言葉みたいにするんじゃなく、あくまで意識的なものなのです!...(分からない?、そうでしょうとも?、興味本位に軽々しくやるもんじゃない!...つったって、私の場合、ごく自然になってますけど!)、
思念的でない、意識的な問いかけというのは、否定的であったり、疑ったり、そう、興味本位などでないことです。
“心が豊かになり、魂に響くようなことを尋ねたらいいんですよね?”と...すると、即座に“そうだ!“の応答が!(これは声なき声の響きみたいなものであり、この“そうだ!”に先の意識の重みがかかる訳です。どうも“そうだ!”という応答しかないような感じもしますが...それが思念でないところなんでしょう)
これを例えば、何か品を買おうと迷っていて、どちらを選んだらいいでしょうか?、なんてこと訊いたことなど無いですけど(ものは試しでやったことはあった?)、全く反応など無いのが普通で、むしろ先の意識が収斂されることの逆で、分裂気味にまとまらなくなったりして、まるで“んなもん、考えて分かることは自分で考えて決めろよ…ば~か!“と通達されている感じになったりするのです。
もしかして、こういうことは、自分自身の心の奥の声と自問自答しているのかもしれません。
たとえそうだとしても、余計なことばかり考え、迷っている自分にしたら、それを超えたものに尋ねるということに変わりはないはずです。
ただ神的なものを意識することは、よりそういう自分から離れやすくなるということは言えるでしょう。“そうだ!“...あ、又!
あなたの神を疑うことは、本当のあなたを疑うことと同じなのです!...“そうだ!“
何も信じられない世の中だからこそ!
...ったって、神なんて居るかどうか分からん!...だから、人に、世の中の声に聞いたりする...彼らに心のことなど分かるだろうか、心ないものではないだろうか?...よって、ますます分からなくなり、迷ってしまうことになるのではないですか?
ためしに、”神よ!、あなたは本当に居られるのですか?”、と尋ねてみる...
ああ、もう!...耳鳴りぴきーっと、全身全霊を包むバイブレーション、じんじんと、一際増してくる!...本当に神なのかどうかは分かりませんが、こういう応答のようなのはテキメンにあるのです!
これは、いつも言っている、”神に意識を向ける”ということのバリエーションのようなものなのですが、もっと直に尋ねるという風に向けると、もっとズシンと何か重みがかかり、意識が揺さぶられるというか、何かより意識がその尋ねる問題に集められてゆく、収斂されてゆくようになるのです。
勿論、私の意志想念でそうするということでなく、自ずとそうなるということなのですが...
もっとも尋ねるといっても、あれはどうなんですか?、とかごちゃごちゃと思念的な話言葉みたいにするんじゃなく、あくまで意識的なものなのです!...(分からない?、そうでしょうとも?、興味本位に軽々しくやるもんじゃない!...つったって、私の場合、ごく自然になってますけど!)、
思念的でない、意識的な問いかけというのは、否定的であったり、疑ったり、そう、興味本位などでないことです。
“心が豊かになり、魂に響くようなことを尋ねたらいいんですよね?”と...すると、即座に“そうだ!“の応答が!(これは声なき声の響きみたいなものであり、この“そうだ!”に先の意識の重みがかかる訳です。どうも“そうだ!”という応答しかないような感じもしますが...それが思念でないところなんでしょう)
これを例えば、何か品を買おうと迷っていて、どちらを選んだらいいでしょうか?、なんてこと訊いたことなど無いですけど(ものは試しでやったことはあった?)、全く反応など無いのが普通で、むしろ先の意識が収斂されることの逆で、分裂気味にまとまらなくなったりして、まるで“んなもん、考えて分かることは自分で考えて決めろよ…ば~か!“と通達されている感じになったりするのです。
もしかして、こういうことは、自分自身の心の奥の声と自問自答しているのかもしれません。
たとえそうだとしても、余計なことばかり考え、迷っている自分にしたら、それを超えたものに尋ねるということに変わりはないはずです。
ただ神的なものを意識することは、よりそういう自分から離れやすくなるということは言えるでしょう。“そうだ!“...あ、又!
あなたの神を疑うことは、本当のあなたを疑うことと同じなのです!...“そうだ!“
何も信じられない世の中だからこそ!