人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈らされること

2024-01-03 09:13:21 | 祈りと瞑想
一昨日は天災で、昨日は人災!...正月から一年分の災難に見舞われているようです!
羽田の航空機事故!...報道画面が映し出された時は、大惨事かと思ってしまいました。
亡くなられた乗務員の方は、お気の毒でしたが、一歩間違えばそうなっていたかもしれない...乗客が全員無事だったなんて、これは奇跡的なことに感じてなりません。
だから...これは私の毎日の、“大難を小難に代えてくれますように...“、という祈りの功が奏したんです!...って、それじゃダメなんです!
本当のところは、祈れば神が願いを叶えてくれるかどうか、などのことは知らないのです。
それどころか、もしかしたら神が、人間の因果応報だとかでそういう災難を起こしているかもしれないのです。
だけど、普通に考えたら分かるように、現実にはそういう想念のもとで、ああいう祈りに意識が向き、意識づけられることはありません。純一無雑にそう心が赴く訳が無いのです。
神のことは、思いを超えているのだから分からないのです。分からないことをアレコレ考えるのは無駄なだけです。だから祈るんだ!...
これは、自然に“そう仕向けられるものがある“、ということを言っているのです。
考えても分からないことは、任せるっきゃない!...いや考えても分からないけど、テキメンに感じられるものがある!...それはそうすることで、いつの間にか心が安らぐということなのです。
何の因果かは知らないですよ!...こうなってるのに、“私の祈りの力で!“、とか“祈れば災難を軽くしてやろう!“、なんてことがどっからも浮かんで来る訳ないでしょ!
“で、何?、自分だけが幸福に感じていてどうするのか“って?...人が幸福か、幸福になるかどうかなんてことは知らないです。
だけど、このことは私の思いを超えて、私個人でないものに開かれているという感じがあってのものなんです。私を超えた方に通るものがある...それが他者に通じるかどうかは分からないですよ。だから任せるしかありません。
要するに自分の思い、力に頼るのでなく、それを超えたものに全託するのみということ
なのです。
いやあ、何かこう書いているだけで、ズシッとかかってくるもの、促されるものを感じてなりません!
だから、願わくば、皆が心安らかでありますように、と祈らざるを得ないのです!...
コメント
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