人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えない世界からの召命

2024-01-04 09:41:34 | 求道、探究
「我々の求めていることは、則ち召されていることである。我々が頼りに見えない世界に向かって何かを求めているということは、言い換えれば見えない世界から我々が呼び出されているということでないか」(金子大栄「観無量寿経講話」/在家仏教協会刊)

数十年までの私なら、おそらくこういう言葉に接しても、“へえ、そういうこともあるのか“、というぐらいにしか感じずにスルーしてしまったことでしょう。
ところが、いつの間にか眼が釘付けになり、その言葉に言い表せない世界に引き込まれるような感覚を覚えるようになってしまったのです。
あちらから、あの御方から召される、呼び出されるとは実にこういうことなのでしょうか?
金子大栄師にあっては、その御方とは勿論、阿弥陀如来でしょう。
弥陀の本願とは、この消息を伝えるものなのでしょう。
私は、世の人の歩みとは一寸ネジれておりまして、こうしたことは主として小池辰雄先生を通じて聴聞されて来たのです。
則ち先生においてはキリストの本願、南無キリストということです。
「祈りは根源現実において叶えられているのだ」という告白は何度となく聞かされました。
でも、前記のように私には何のこっちゃ分からなかったのです。
こっちが求めているだけでは!...
求めていることが即求められていることなんだ!
いや、だから即愛、平安に包まれてしまうんですよ!...これがあちらから召される、呼び覚まされるということでなくてなんであろう!
“愛、平安が与えられますように“、という祈りは叶えられているではないか?!
これは、純一無雑に、主一に自己とその帰依の向かうものが一如になっているということです。
それは、阿弥陀如来だろうとキリストだろうとアラーだろうと、どこまでも一人一人の内実、内奥に帰される問題であるはずです。
阿弥陀仏に本当に南無されているならば、南無キリストということも共感されない訳などあろうはずがないではありませんか?
もし、そこに“わが仏のみ尊し“の独善、相対的感情が引き起こされるとしたら、それは自分の思念に支配されているということであって、あちらからの召命を受けていない、否受け入れようとしていない心的状態だ、ということを知らねばなりません。
見えない世界からの召命がある...それは、何時でも何処でもその道は、開かれているということです。
私は特別な修行も無しに、いつの間にかこういうことになってしまいました。だからそれは全く私の思い、力を超えているのです。
ただ、一つこうして書いていることで、それがハッキリと感じるようになったということは言えます。
もっとも、それはいつも何かに促されるのを感じてしていることなんですが...
やっぱり!...

コメント
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