人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えないけど感じられる

2024-01-15 09:57:16 | 
この度の震災のことでも、多くの人から、復興の早からんとことを、被災者の心が平安でありますように...など祈り、願いの声が聞かれました。
不謹慎な言い方ですが、何人の人が本当に神仏を信じているのかは分からないですが...
現実的に考えると神がその祈り、願いを叶えてくれるかどうかは分からないのです。
いや、神が実在するかどうかすらも、普通の人には分からないでしょう。
私にも分かりませんが、私は何度も祈ることで平安に与ることが出来ると言ってきました。
これは多く、神的なものに意識を向けることと結びつけられているのですが、神の実在が分からないのに何で向けられるのか?、という疑問を持たれる向きもあるでしょう?
だからね、向いちゃう、自ずと動いちゃうんだからしょうがないのです。
いや、これはもしかして、そういう学説があるように、エンドルフィンとかの脳内物質が働くためかもしれないのです。
何にしろ、これは意識的な領域と関わっているのは間違いないでしょう。
潜在意識というのか深層...そう超越意識!...どうやらそういう意識が活性化されるらしい?...神とかは関係無いのか?
いや、そうじゃない!...エンドルフィンだろうと、意識のことだろうと、アレコレ理屈づけて考え、思い描いている自分を超えたもの、与り知れないものであるのは同じはずなのです。
そして、理屈づけようとする人というのは、大体において神の実在を否定しようとするようなのです。
私が神の実在性について分からないということは、何度か言っているように、言い回しは微妙ですが、そういう実体があるものとして存在しているかどうかは、分からないということであり、そういう意味ではどちらかというと否定的なのです。
そういう実体は見たことがありません。だけど見える、見えないを超えて、愛、平安、リアリティが、そこに感じられる。いや、それは見えない...とどのつまりこちらの思いを超えたものだからこそ、そう、感じられて来るのではあるまいか?(ついでに言えば、エンドルフィンだって深層意識だってこの目で見た訳じゃありませんよ!)
そういうものが感じられる時、与っている時アレコレ理屈づけて考えている私など居ません!
それをもたらしているものは、あなたの思いを超えたものなのだ!
愛、平安、リアリティ...それは、思念の限界に突き当たり、思われた自分が木っ端微塵にならないと絶対に分からないものなのです!
神を信じられないのなら信じる必要はありません。思いの世界で信じたってしょうがないし、かえってそういう思凝念を強め、“現存“の道を閉ざすことにもなります。
要するに、自分がどう疑うことが出来ない(これが思いを超えるということ!)リアルなもの、現存するものに与るかどうかが重要なことなのです。
これをいつも神的な現存、現臨と言っているのに他なりません。
そして、人間は誰しも神を信じる者も信じない者も、危急な事態に直面するならば、自分の思いを超えたものに“思わず“意識が向いてしまうものなのではないでしょうか?...


コメント
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