人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

個の自由と関係性②

2024-01-12 09:41:58 | スピリチュアル
自由であることは、あらゆる縛り、障り、しからみなどから解放されていることです。
自由であることは、読んで自の如く、他の者からでなく、自らに由ってあるということです。
そう、私は誰が何と言おうと、私のままでいいのです!
そこには、私しか居ないのです!...ほんまか?...
お気づきのように、この自由であることの表現は、すべて他者との関係性というものが前提になっているのです。この関係性が無ければ、自由のことも、否そもそも自己というものすら出てきようが無いのです。
では、最近の悟り系スピなどが説いているように、全体的関係性だけがあって、個人の私というものは存在しないのでしょうか?
これも度々言っているように、“私は居ない、全体しかない“、というのは、誰がそう感じて、言っているのか?、ということになるのです。自己無くして全体も普遍も無いのです。
つまり、個と他との関係性というのは、このように存在的につながっているという意味とは別に、ややこしい言い方ですが、それ自体が感じ方として関係性、縁起に組み込まれているということです。
しかし、その上で如何に自由であることに与る、そう感じることが出来るか、ということが問題なのですね。
そう、これは畢竟、感じ方の問題に尽きるかと思います。あなたや私が自由に感じられたら自由なんだ!
しかし、人間関係に纏わる、色々なしがらみ、もつれから自由になることは、どうしてもそう思い、為そうとする自分からはそうなれないのです。
そうですね、いつも言っているようなことに帰結しそうです。神的なもの、思いを超えたものと共にあればいい!
それでは、神から自由でなくなってしまうのでは?...って、バカなことを言ってはなりません!
本当に、ホント~に、私は神的なもの無しに、そういう諸々のしがらみ、障りから解放され、自由に与った、と感じたことなど一度もありませんよ!
いや、もしかしたら本当の状態は、諸々の腐れ縁から解放されてなどいないし、業因縁から抜け出せてなどいないのかもしれません。
だけどね、業だろうと悪因縁だろうと何だっていいんですよ!
因縁がどうとか、関係性がど~たら、って関係無いですね!...いや、この自由は、それはとどのつまり幸福であることなのは言うまでもないですが、それは神との因縁、関係性に依っているのではないか!...このように観じると、因縁、関係性というものが全く違って感じるようになります。
もしかしたら、神と共にあることこそが、因縁を超えるということかもしれないのです。本当はどうか知らないが...(え!?)...そう、感じたらきっとそうなんだろう?...幸福であれば、因縁のことなど感じない!
こう考えると、本当に逃れることが出来ない、蜘蛛の巣に捉えられた状態とは、神の綾なす糸に捉えられることかもしれません!
何故ならば、捉えられたら、誰もそこから逃れようなどと思わないだろうから!...

以上はあくまで私的な言い方を表したにすぎません!
どう感じるかはあなたの自由です!...






コメント
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