多くのクリスチャンは、“イエスを信じないと救われない!“、と信じているのですか?
ホントに信じられないのに信じないとならないのですか?
いやもう、ホントに...ムチャクチャな話だとは思いませんか?
教会とは、多くの偽善者を作り出すところなのか?
だから私は、キリスト教にとても惹かれるところはあっても、ゼッタイにクリスチャンになんかなりたくなかったのです!
“私はウソをつけない人間なもので!“
正直、ずっと昔の、海の向こうの人のことなんか、信じ、受け入れることなど出来ません!...縁のあった福音集会で、このことをどうしても叫んでみたかった!...“御霊の促し“によってね!
「誰でも聖霊によらなければイエスを主であると言うことは出来ない」(使徒パウロ)
この英語の“lord“を“主“と訳してあるのは、実にスバラシイ!
もっとも、それは主君とか王侯のことで、信者は“僕“と呼んでいるような関係として捉えられているらしいですが...何と水臭い、他人行儀なことか!
それで、“キリストと一つにされる“、などとどうして言えるのか!
主とは、私自身の主となるもの、私に直結した大本の私、考えている表層の私を超えた私そのものでなくて何であろう!
実に思われた私を超えて、又内在したものに、真の、本来の自己が求められるのです。
これは、仏性、阿弥陀如来、禅宗の“無位の真人“、神道の“直日魂“、今日スピ界隈で普通に“真我“と呼ばれるものなどとも通じるものです。
つまり、“イエスに表れたキリスト“が真我なんだ!(思われた自分と直ちに同一視など出来ないが...)...それは言うまでもなく、本来超宗派的なものであるはずなのです。
このことを明らかにしてこなかったキ教は、全くどうかしているとしか言いようがありません。少なくともそれが同教が我が国でサッパリ振るわなかった大きな要因でしょう。
しかしながら、その我が主なるものの証は、“御霊“に感じていなければただの観念ごとに浮くだけでしょう。数多あるイエス論も仏性論もすべて空しい...
現実に我が主が臨んでいるかどうかが肝心なのです!
何度も言うようにこの神的な現臨という表現は、多くキ教から借りているのですが、これは、実際にその集会に参じた時にも、主として手島先生や小池先生、ベルジャーエフの本を読んだだけで(!)、そういうものを感じたことに依るのです。
ある意味では私にとってキリスト教とは聖霊教なのです。
何か理屈では分からない感応性がそこに感じられてなりません。
といって、キ教なら何でもそうなる訳では勿論ありませんよ!
おそらくそれらから、より夾雑物の無い、私に直結した、我が主なるものの息吹きが伝わるからなのでしょう。
ホントに信じられないのに信じないとならないのですか?
いやもう、ホントに...ムチャクチャな話だとは思いませんか?
教会とは、多くの偽善者を作り出すところなのか?
だから私は、キリスト教にとても惹かれるところはあっても、ゼッタイにクリスチャンになんかなりたくなかったのです!
“私はウソをつけない人間なもので!“
正直、ずっと昔の、海の向こうの人のことなんか、信じ、受け入れることなど出来ません!...縁のあった福音集会で、このことをどうしても叫んでみたかった!...“御霊の促し“によってね!
「誰でも聖霊によらなければイエスを主であると言うことは出来ない」(使徒パウロ)
この英語の“lord“を“主“と訳してあるのは、実にスバラシイ!
もっとも、それは主君とか王侯のことで、信者は“僕“と呼んでいるような関係として捉えられているらしいですが...何と水臭い、他人行儀なことか!
それで、“キリストと一つにされる“、などとどうして言えるのか!
主とは、私自身の主となるもの、私に直結した大本の私、考えている表層の私を超えた私そのものでなくて何であろう!
実に思われた私を超えて、又内在したものに、真の、本来の自己が求められるのです。
これは、仏性、阿弥陀如来、禅宗の“無位の真人“、神道の“直日魂“、今日スピ界隈で普通に“真我“と呼ばれるものなどとも通じるものです。
つまり、“イエスに表れたキリスト“が真我なんだ!(思われた自分と直ちに同一視など出来ないが...)...それは言うまでもなく、本来超宗派的なものであるはずなのです。
このことを明らかにしてこなかったキ教は、全くどうかしているとしか言いようがありません。少なくともそれが同教が我が国でサッパリ振るわなかった大きな要因でしょう。
しかしながら、その我が主なるものの証は、“御霊“に感じていなければただの観念ごとに浮くだけでしょう。数多あるイエス論も仏性論もすべて空しい...
現実に我が主が臨んでいるかどうかが肝心なのです!
何度も言うようにこの神的な現臨という表現は、多くキ教から借りているのですが、これは、実際にその集会に参じた時にも、主として手島先生や小池先生、ベルジャーエフの本を読んだだけで(!)、そういうものを感じたことに依るのです。
ある意味では私にとってキリスト教とは聖霊教なのです。
何か理屈では分からない感応性がそこに感じられてなりません。
といって、キ教なら何でもそうなる訳では勿論ありませんよ!
おそらくそれらから、より夾雑物の無い、私に直結した、我が主なるものの息吹きが伝わるからなのでしょう。