人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

何となく感じられることから

2024-01-17 10:07:59 | スピリチュアル
今年もこの日を迎えることになりました。
忘れもしない平成7年のこの日...阪神大震災。
当時、兵庫県尼崎市に在住していた私は、特に被害を被ったことは無かったのですが、震度6の激しい揺れを経験しているし、歩いて10分もかからない隣町西宮や神戸の惨状を目の当たりにしているなど、全く他人事でなく、当地の多くの方と同じであろうように、又この度の震災と重ねられるように、亡き者たちへの鎮魂のことなどに思いが向けられるのです。
しかし、又不謹慎なことを言うようですが、何人の人が死者の霊の永続性、霊魂などのことを信じているのでしょうか?
慣例というか、そういう行事をすることになっているからでしょうか?
以前、神とか霊の存在を全く信じていない知人が、“お盆には先祖を祀るんだ“、と言っていたので、“信じていないのならする必要ないじゃないか?“、と突っ込んでみたことがありました。この人の場合は、慣例的に思っている線が強く感じられましたが、それ以外に何とな~く、信じられ、感じているという人が多いように思われます。
これを、“人間は肉体は死んでも霊体として永遠に存続しているのです!“、と実体論で説明されると、多くの人は多分引いてしまうことでしょう。
私には、神の実体と同じく霊の実体があるのかどうかは分かりません。
だけど、何とな~く信じている、感じている訳でもありません。じゃ、どう感じているかと言うと...これが分からないのです!
霊なるもの...私的にそれは、死者の霊に限ったものでなく、それを超えて人間の内に息づいているものであり、より超越的なものは神的なもので、要するに共々思いを超えたもののことです。
思いを超えているということは、言い表すことが出来ない!...だから分からないのです!
その実体は分からないけど、神的な、霊なるものには意識が向けられ、又意識的になっているからそれらが感じられるのです。(言うまでもなく私の場合、今日のような特別な日以外でも年がら年中ですが...)
実体論のような説き方だと、逆に思念的なものが感じられて、“入って“行かなくなります。
だから霊なるものは、何か確たるものが存在しているように信じる必要はありません。
多くの人は何となく、漠然と信じているようです。それは願望かもしれません。祈り、願うということは!
でも、あることが契機となり、そうせずに居れない気持ちに駆り立てられるものなのではありませんか?
自分の思いを超えた現実に直面した時、誰しも思いを超えたものに意識を向けざるを得なくなるのではないでしょうか?
それは、自分自身の内に息づいている霊なるものが呼び覚まされるのではないでしょうか?
そう、それは他者であっても、生きていても死んでいても自己の内なるものと切り離すことが出来ない...自他の平安を祈らざるを得ないものがそこにあるということなのでしょう...。







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