私は生まれつき神を求めるような、宗教的な人間であることを自覚しています。
幼い頃、しばしば母に、「神様ってな~に?、神様ってホントにいるの?」、と訊いていたことを思い出します。
物心つくか、つかない頃、この母から神のことを聞かされていたのは間違いありません。
そして、ある時は、「僕は一体何なの?、僕はホントに僕なの?...この世界は夢なんじゃないの?、ホントは、どっかにホントの世界というものがあるんじゃないの?」、と尋ねたことを覚えています。
それを受けて母は、「お前は将来必ず宗教的な道を歩むことになるのよ!、もしかしたら悟りを開くことになるかもしれない!」、とか言ってましたっけ!...
これを思うと、自分で言うのもおかしいですが、(悟るかどうかはともかく)私は、神的なものに出会う、精神的な目覚めに与る運命の下に生まれてきたことを感じてなりません。
そして又、ずっと大きくなった後、兵庫県にあった宗教的な団体「大調和協会」の「命位(みょうい)様」からは、「あなたの中には、あなたを超えたとても大きく、強い別のあなたが生きていて、そのものがあなたを導いているのよ!、あなたはそのあなたにどうしても、こうしても会わずに、一つにならないと承知出来ないのでしょう?、そのあなたをどうか成就して下さい!」、と内心感じていたことをスパッと言われたのでした。
いつも言うように、その実体が何であるかは私は知りません。ただ命位様が言われたようなことを感じていて、それに突き動かされて来たことが私の精神的な道のまっ中心だったということなのです。
まだそうした道を歩むことに自覚を持っていなかった頃、大手の宗教団体に入信していたこともありました。そこでハッキリと言葉を持って、その教えに基づいた神についてのことを知らされました。
心の底から得心がいった訳ではありませんでしたが、信じなきゃ仕方が無いように思って信じることにしたのでした。
しかしながら、その教団で説かれている神についての教えと、幼い頃から私の中に育てられていた、頭では分からないながらも仄かに感じている神の道とは、決してごっちゃにされることは無かったのです。
つまり、“私の神の道“というのは、ずっと守られて来たのです。
だから、その教団絡みの信仰生活を続けることに苦しさを感じ出してからも、私は私の神にその苦境から解放されることを祈ることが出来、それが叶えられたのです。
私の神の道を歩むことに自覚が生まれ、主体的に関わることになるのはそれからのことでした。
お分かりのように、この神の道は、宗教(団体)を全く超えているのです。
そういうものが、私の人生の中心になどなろう訳がありません!
そういうものは、もし、そこに私の内奥から来る音信が感じられないのであれば、思いと共に来ては、去りゆく断片的な記憶でしかありません。
では、この常住に私の内奥に息づいているものとは?
私の人生の中心そのものなのではないか?!...
幼い頃、しばしば母に、「神様ってな~に?、神様ってホントにいるの?」、と訊いていたことを思い出します。
物心つくか、つかない頃、この母から神のことを聞かされていたのは間違いありません。
そして、ある時は、「僕は一体何なの?、僕はホントに僕なの?...この世界は夢なんじゃないの?、ホントは、どっかにホントの世界というものがあるんじゃないの?」、と尋ねたことを覚えています。
それを受けて母は、「お前は将来必ず宗教的な道を歩むことになるのよ!、もしかしたら悟りを開くことになるかもしれない!」、とか言ってましたっけ!...
これを思うと、自分で言うのもおかしいですが、(悟るかどうかはともかく)私は、神的なものに出会う、精神的な目覚めに与る運命の下に生まれてきたことを感じてなりません。
そして又、ずっと大きくなった後、兵庫県にあった宗教的な団体「大調和協会」の「命位(みょうい)様」からは、「あなたの中には、あなたを超えたとても大きく、強い別のあなたが生きていて、そのものがあなたを導いているのよ!、あなたはそのあなたにどうしても、こうしても会わずに、一つにならないと承知出来ないのでしょう?、そのあなたをどうか成就して下さい!」、と内心感じていたことをスパッと言われたのでした。
いつも言うように、その実体が何であるかは私は知りません。ただ命位様が言われたようなことを感じていて、それに突き動かされて来たことが私の精神的な道のまっ中心だったということなのです。
まだそうした道を歩むことに自覚を持っていなかった頃、大手の宗教団体に入信していたこともありました。そこでハッキリと言葉を持って、その教えに基づいた神についてのことを知らされました。
心の底から得心がいった訳ではありませんでしたが、信じなきゃ仕方が無いように思って信じることにしたのでした。
しかしながら、その教団で説かれている神についての教えと、幼い頃から私の中に育てられていた、頭では分からないながらも仄かに感じている神の道とは、決してごっちゃにされることは無かったのです。
つまり、“私の神の道“というのは、ずっと守られて来たのです。
だから、その教団絡みの信仰生活を続けることに苦しさを感じ出してからも、私は私の神にその苦境から解放されることを祈ることが出来、それが叶えられたのです。
私の神の道を歩むことに自覚が生まれ、主体的に関わることになるのはそれからのことでした。
お分かりのように、この神の道は、宗教(団体)を全く超えているのです。
そういうものが、私の人生の中心になどなろう訳がありません!
そういうものは、もし、そこに私の内奥から来る音信が感じられないのであれば、思いと共に来ては、去りゆく断片的な記憶でしかありません。
では、この常住に私の内奥に息づいているものとは?
私の人生の中心そのものなのではないか?!...