goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

もっとも主体的な道

2024-01-09 09:44:14 | 求道、探究
神を信じているのに、いつも祈っているのに、一向に幸福に感じて来ないし、かえって苦しみを感じるようになった、という話を時折聞きます。
私には全く解せないことです。
神を信じたり、祈ったりすることが苦しいことなら、サッサとヤメたらいいじゃないですか?
神を信じられないなら信じなければいい!、祈れないのなら祈らなければいいだけのことではないか?
え、信じないと、祈らないと救われない?...って誰が言ったのですか?
自分が入ってる宗教の人?...まあ、そういうことなのでしょう。
何ごとでもそうですが、特にこうした道では、自分にその気が無いのに、仕方無しにそういうことをし続けるほど無駄なことはありません。そんなことに時間と力を費やすんなら、祈ったらいい!(は!...???)
これは、多くの場合、宗教が、周りの人が言っている神などのことと、自分が直接求め、考え、感じている神などのことをごっちゃにしていることから来るのでしょう。極めて内的なことと外的なことが混同されているのです。
それで、次第にその宗教を取り巻く集団的思念が内面を覆い始め、その集団と関わることがイヤになってしまうのでしょう。
自分には合わないのに、教えや行に従わさせられたりね。(私なんかは、この行というもの、瞑想や座禅などはともかく、祈りにも行と結び付いて、何回称えなきゃならないとか、何時間しなきゃならないとか思うだけでイヤになりますよ)
それが元で、神そのものを信じたり、祈ったりすること自体がイヤになって、無神論者のようになってしまう人も多いと思います。
これは、実に勿体なくもナンセンスなことですよ!
私はよく、神に意識を向けるとか、意識的になるとか言います。神を信じるとか祈るというのは、そういうことにつながるのですが、これは自ずと向いてしまうことでもあるのです。
要するに、それが自然とその気になっているということ...これほど主体的な道というものは無いと言ってもいいくらいです。(いや、宗教の界隈には、何と無駄な、余計なお節介、決めつけ、決まりごとて溢れていることか!、いつの時代でも本当の宗教をダメにするのは宗教集団なんだ!)
自然と意識が神的なものに赴く...これはどうしてなのか?...安らぎ、幸福が感じられるからに他なりません。
だから、神を信じて、祈っていて苦しくなるのはオカシイと言うのです!
何か欲しいもの、求めているものを得ようと信心していて、叶えられないことで苦しく感じるというのは、欲望が表に出すぎていて、意識は引っ込んだままになっているのでしょう。
このように、神を求めることというのは、どこまでも自分自身の問題なのです。
だから...精神的な道で苦しみ、迷いを感じているのなら、あなたの神に祈ったらいいのです!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする